夜ドラ「ラジオスター」
NHKドラマ「ラジオスター」を毎回心待ちにしながら見ていましたので,放送が終わってしまい寂しく思っています。
ラジオ放送の場面を通して,被災者の方々が抱える心の傷や葛藤が丁寧に描かれていて,大規模災害後の復旧・復興が,地域で生きる人々にとっていかに深刻な問題であるかを改めて思いました。それでもなお,人と人とのつながりに支えられながら,少しずつ前を向き,希望を取り戻していく姿を描く,新しいタイプの「災害復興ドラマ」として深く心に残る作品でした。

東日本大震災以降,東北を中心に被災者へ必要な情報を届けるため,期間限定の災害FM局が各地で開設されたそうです。能登半島地震の被災地でも,初の災害FM局「まちのラジオ」が作られ,ドラマ「ラジオスター」はこの実話をもとにしているようです。
私はこのドラマを見て初めて災害FMの存在を知り,実際に「まちのラジオ」を聴くようになりました。地域密着ならではの手作り感やアットホームな雰囲気があり,聴いていて自然と温かい気持ちになります。実際の番組では「町の復興・情報ラジオ『町の和』」○月○日○曜日,時刻は12時になりました。ラジオの前のみなさん,こんにちは!ここからは町の復興情報番組です。よろしくお願いします」~そんな温かいあいさつで始まる放送を,「ラジオスター」の物語と重ねながら楽しんで聴いていました。
風水害について

・ 8・6水害
災害大国といわれる日本では,地震や台風,豪雨などによる大きな災害がたびたび発生し,多くの命が失われています。学校では毎年,9月1日の「防災の日」に合わせて避難訓練(地震)が行われています。
「台風銀座」とも呼ばれてきた鹿児島県でも,梅雨や台風の時期には風水害が多く,これまでに大きな被害が何度も起きています。県内には実際に命の危険を感じた人も多いと思います。災害は,人命や家屋だけでなく,インフラの寸断や精神的な不安など,さまざまな影響を与えます。そのため,復旧や復興には長い時間と大きな苦労が必要になります。
全国でも,阪神・淡路大震災や東日本大震災,能登半島地震など,大規模災害が繰り返し発生しています。日本は地震や火山活動が活発で,台風や豪雨の被害も起こりやすい国です。

ドラマでの救出場面
「ラジオスター」の放送の中で,小野さくら(常盤貴子)が地震当時の体験を語り始めるシーンがとても印象に残りました。特に,地震で倒壊した家屋の下敷きになった小野を,消防士の西川が必死に助け出そうとする場面です。
「先に逃げてください。津波が来ます。私のことはもういいですから」と,自分を置いて逃げるよう叫ぶ小野に対して,西川は「一緒に死んでやる」と言いながら救助を続けます。その必死な姿に強く胸を打たれました。このシーンを見ながら,実際に災害を経験した多くの人たちも,たとえ命が助かったとしても,心の深い傷やトラウマを抱えながら生きていくのだろうと感じました。

鉄砲水被害
私もこのシーンを見て,自分の体験を思い出しました。鹿児島県は風水害の多い地域で,平成に入ってからも「8・6水害」をはじめ,大きな災害が何度も起きています。河川沿いや山間部の学校は,毎年のように地域住民の避難場所になっています。
あの災害の日のことは,今でも衝撃的な光景として胸に残っています。学校の横を流れる小さな川が鉄砲水となり,近くを巻き込む甚大な被害にあったときのことです。朝早く,校長先生から緊急の連絡が入りました。「学校が大変なことになっている。すぐ来てほしい」と言われ,急いで学校へ向かいました。到着すると,すでに消防車や救急車が何台も止まっていました。地元の消防団や地域の方々が瓦礫の撤去作業を始めていて,私たち学校職員も一緒に,大きな木材などを校庭へ運びました。
しばらくすると,消防職員の大きな声が響きました。みんなが駆け寄ると,遺体が担架で校庭に運ばれてきました。私たち職員も加わって,その担架の遺体を体育館へ運びました。間もなく二人目も運ばれ,同じように体育館へ入り,警察や医師による検視が行われていました。
救急車の中の出来事
そして最後に,父親のMさんが見つかりました。奇跡的に命は助かり,大けがではあったものの生存していたため,周りからは励ましの声が上がりました。

Mさんが救急車で搬送される際,校長先生から突然,「先生,一緒に病院まで乗って行ってください」と声をかけられました。戸惑いながらも,私はその方の隣に座ることになりました。そして最後に,校長先生の奥様も乗り込んでこられました。
Mさんは地域PTAの役員を務めていた方で,私にとっても顔なじみの方でした。救急車が走り出して間もなく,Mさんは突然,私の手を強く掴み,「先生,ウッカタ(妻)はな,あたいの娘はな,いけんじゃったと(どうだった)」と,震える声で尋ねられました。
つい先ほどまで体育館へ搬送したばかりでしたので,若かった私は何ひとつ言葉を返すことができず,ただうつむくことしかできませんでした。するとMさんは,さらに声を張り上げ,「先生,ウッカタは死んだとか。娘はだめやったとか」と,何度も繰り返して問いかけてこられました。
私はただ呆然とするばかりでした。そのとき,奥に座っておられた校長先生の奥様が,そっと近づき私の手を外し,Mさんの手を優しく包み込まれました。そして大きな声で,「二人とも大丈夫ですよ。けががひどかったから,大きな病院へ運ばれたんですよ。だからMさんは,自分のけがをしっかり治しましょうね」と,語りかけていました。
私はその傍らで,何もできないまま,ただその光景を見つめていることしかできませんでした。病院へ到着し,救急車を降りるその瞬間まで,Mさんは私に向かって,「先生,本当はいけんじゃっとね。先生……」と叫び続けながら運ばれていかれました。その後のことは,不思議なくらい記憶が途切れていて,今でもほとんど思い出すことができません。
一人だけ退院したMさん
その数か月後,退院されたMさんが職員室を訪れ,先生方に丁寧に挨拶をされました。その翌日,校長先生がそのときの様子を全職員に話してくださいました。
Mさんの自宅は,以前から大雨のたびに危険にさらされていたそうで,近いうちに引っ越しを考えておられたとのことでした。しかし,先祖代々受け継がれてきた土地であったため,なかなか決心がつかなかったそうです。そのことが,結果として大切な家族を失うことにつながってしまい,Mさんは,深い悔恨の念を抱いておられたと聞きました。
災害の日の明け方,家中に響く凄まじい地鳴りに気づき,Mさんは慌てて家族を起こし,避難しようとされたそうです。しかし,次の瞬間,家がもち上がり,あっという間に濁流に流されてしまったとのことでした。
後日,私もその場所を訪ねました。そこには,かつて家があったことが分かる土台の一部だけが残されているだけで,家屋は跡形もなく消え去っていました。私はただ,自然の猛威を思い知るばかりでした。
