大河ドラマ「豊臣兄弟」
今回の大河ドラマ「豊臣兄弟」は,弟の秀長を主人公にしているため,ホームドラマ的な雰囲気があり,楽しく見ています。秀吉の身内から見た秀吉像が描かれているのも新鮮で,これまでとは違った視点で戦国時代を味わうことができます。
また,九州平定戦で薩摩入りした秀吉は,米ノ津・出水・野田・川内・山崎・佐志・針持・曽木の滝・羽月・大口・大口平泉などを通っています。弟の秀長についても,近年の研究では日向側から薩摩入りしたと考えられるのが一般的だそうです。豊臣兄弟がそろって鹿児島の地を踏んでいたのであれば,大河ドラマでどのように描かれるのか気になるところです。
ところで,これまでの大河ドラマでも信長・秀吉・家康を取り上げた作品は数多く,この時代の歴史が日本人の好きな大きな転換期であることを改めて感じます。

・NHKホームページより
◆「信長・秀吉・家康」関連を扱った大河ドラマ
| ①豊臣兄弟!(秀吉・秀長) ②どうする家康(家康) ③麒麟がくる(明智光秀) ④おんな城主 直虎(井伊直虎) ⑤軍師官兵衛(黒田官兵衛) ⑥江~姫たちの戦国~(江) ⑦功名が辻(山内一豊夫妻) ⑧利家とまつ(前田利家) ⑨葵 徳川三代(徳川家康~家光) ⑩秀吉(豊臣秀吉) ⑪信長(織田信長) ⑫春日局(春日局) ⑬徳川家康(徳川家康) ⑭おんな太閤記(ねね) ⑮太閤記(豊臣秀吉)… |
先週の回で描かれたのは,二人の天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛の出会いでした。限られた条件の中でチャンスを見逃さず,知略を駆使して勝利への道筋をつくっていく姿に,軍師としてのすごさを感じました。
竹田城攻めでも,「水攻め」や「敵陣への調略」といった策が見事に決まり,無血開城へとつながっていく様子が印象的でした。戦国時代は武力による戦いに目が向きがちですが,知恵や情報を駆使して戦う軍師たちの活躍も,この時代の大きな魅力だと思います。
太閤検地とは
秀吉は,刀狩や太閤検地を行い,中世の戦乱の世から近世社会への転換を進めました。刀狩では一揆を防ぐとともに兵農分離を進め,太閤検地では全国の土地や年貢の基準を統一するなど,豊臣政権による全国支配の基盤づくりを進めたのです。

太閤検地は,1582年に始まった全国規模の土地調査で,田畑の面積や収穫量を調べ,土地支配や年貢制度を整えるための大改革でした。本能寺の変の直後に山城国で始まり,秀吉が亡くなるまでの16年間で150か国以上に及んだといわれています。
薩摩での秀吉は島津氏にどのように関わったのでしょうか。今回は,薩摩で行われた太閤検地にまつわる出来事を紹介したいと思います。
薩摩での太閤検地
天正15年(1587年),秀吉は九州平定戦で肥後国から薩摩国に入って直ぐに「島津分国検地五箇条」を出し,平定後には「①検地を急ぐこと」「②農業生産を確保すること」「③軍勢が住民に乱暴を働かないこと」を命じています。これは,戦後の混乱を収め,秩序の回復を目指したものと読めます。
| 一、村にいるすべての百姓について,速やかに土地や耕作の状況を調査・確認しなさい。 一、耕作などの農作業は,少しも無駄なくきちんと行わせなさい。 一、軍勢の者,身分の高い者も低い者も,村の住民に対して,理由のない言いがかりをつけたり 迷惑をかけたりしてはならない。 右に掲げた条々について,もしこれに違反する者があれば,ただちに厳しく処罰するものとする。 天正15年4月 秀吉(花押) |
・ 島津分国検地五箇条
薩摩への仕置き「出水五万石」

・ 出水五万石「出水市・高尾野町・野田町長島町・高城郡の一部」
| 薩摩で実施された太閤検地には,単なる土地調査にとどまらず,領内支配体制の再編という目的もあったようです。秀吉政権は検地を通じて従来の主従関係を切り離し,耕作地と耕作者を確定することで年貢徴収の基盤を整えようとしました。 その一方で,検地後には藩内の領地替えが進められ,島津家重臣層の勢力を弱める効果も生みました。実際,処替えによって秀吉の政策にとって障害となる勢力が排除された例も見られます。薩摩での検地は厳格に実施され,とれるところからは徹底して石高を把握しようとする方針がうかがえます。その象徴的な事例が「出水五万石」です。 文禄の役(1592)の際,島津氏には1万5,000人の出兵が命じられていました。しかし,出水領主であった薩州島津家の忠辰は,本家の義弘に従うことを嫌い,病気を理由に出陣しませんでした。これに激怒した秀吉は薩州島津家を断絶させ,その所領と高城郡の一部,いわゆる「出水五万石」を没収して直轄地(天領)としました。他の要因として,1588年の海賊停止令以後も薩州島津家による倭寇的活動が問題視されていたこともあったと考えられます。 その後,出水五万石は文禄の役で戦功のあった宗対馬守に与えられましたが,秀吉の死後,義弘への論功行賞として再び島津領に復帰しました。なお,長島・獅子島は1574年に薩州家の義虎の代に天草鎮尚から割譲されており,それ以降は島津領となっています。(※) |
※ 一年前の当ブログでも触れましたが,「マップ―国土交通省 九州地方整備局」のホームページの色分けでは,本県の長島・獅子島が熊本県を示す緑色になっています。これだと,秀吉に没収された「出水五万石」が家康によって返還されなかったのでしょうか。河川事務所の管轄上の理由なのか分かりませんが,もしそうであれば但し書きが必要ではないでしょうか。このままであれば,長島町や獅子島は熊本県になっていておかしいですよ。

・鹿児島県最北端の獅子島
喜入島津家
伊地知季安の嫡男・季直(季通)が著した『殉国名藪(じゅんこくめいそう)』によると,1525年に「田代肥前守清隆は,喜入家二代当主・頼久の与力(配下の武士)であり,頴娃氏の侵攻を防ぐため指宿境で戦死した。ひとまずここに記しておき,詳しい考証は後日に譲る」と記されています。こうした記録を見ると,戦国時代の薩摩国内も,島津日新公(1492~1568)の時代までは各地で争いが絶えなかったことがうかがえます。
喜入氏は島津氏の支族で,その祖は薩摩国守護・島津氏9代当主忠国の七男・島津忠弘とされています。忠弘が父から喜入郷(鹿児島市喜入)を与えられて領有したことが,喜入氏の始まりとされているようです。

薩陽武鑑
1558年以降,5代島津季久は藩主義久の命により,所領であった給黎郷(喜入)の地名にちなみ「喜入氏」を称するようになりました。この時,鹿篭(現枕崎市)も加増されています。
| 『薩陽武鑑』によると,喜入家の歴代当主は, ①島津忠弘(島津忠国の七男) ②島津頼久(島津忠国の八男) ③島津忠誉(養子・初代忠弘の嫡男) ④島津忠俊 ⑤喜入季久⑥喜入久道と続きます。季久の代に義久の命によって島津姓から喜入姓を称するようになりました。季久の子は久道・義岡久延・久親・忠続です。 1594年の薩摩で行われた太閤検地は,かなり厳しいものでした。鹿篭郷では庄屋の山村与三が派遣されてきた役人を殴り,逃散するという事件まで起こっています。家老たちも切腹寸前の事態となりましたが,領内の僧侶たちが鹿児島に滞在していた細川幽斉に助けを求めたことで,なんとか命は救われました。 しかし,その責任を問われた喜入家は,喜入と鹿篭の領地を没収され,永吉へ転封となります。久道はその後,1600年に永吉で生涯を閉じました。久道は島津家の九州平定戦で数々の功績を挙げた武将でしたが,最終的には家臣の不祥事によって所領を失うことになりました。まさに不運な武将だったと言えるでしょう。(秀吉側からすると意図的な対応) また,久道の弟である久延は,1580年に義久から「義」の一字を賜り,義岡氏を称し,大口平泉村を本領とする伯州島津家を継ぎました。ました。久道の永吉転封に伴い,文禄4年(1595年)には喜入の地は肝付氏の領有となりました。 |
喜入家と分家の義岡家
喜入家は,島津本家第10代当主・忠国の七男である忠弘を初代とし,頼久,忠譽,忠俊,季久,久道,忠続と続きました。久道の代には太閤検地に伴う騒動の責任を問われ,喜入家は永吉へ移封されます。しかし,その子の忠続の代になって鹿籠の地だけは回復しました。
義岡家は,喜入家第5代当主・季久の次男である久延を祖とする家です。喜入本家が永吉へ移封された際,当主義久から「義」の一字を賜り,「義岡」を名乗るようになりました。もともとの家筋は,島津本家第8代当主・久豊の五男である豊久を初代とし,忠衡,忠實,忠俊と続いていました。久延がその跡を継ぎ,以後,久達,久連,久伴へと続いていきます。本領は大口平泉村にあり,伯州家が都城志和地へ領地替えとなった後,その跡に義岡家が入ったとされています。
| 喜 入 家 | 義 岡 家 |
| ①忠弘(本家第10代忠国七男) ②頼久 ③忠譽 ④忠俊 ⑤季久 ※ 義久の命で喜入氏を称する ⑥久道(永吉へ移封) ⑦忠続(鹿籠の地を回復) 続く~ | ①豊久(本家第8代久豊五男) ②忠衡 ③忠實 ④忠俊 ⑤久延(喜入⑤季久の次男) ※ 義久の一字から義岡氏を称する ⑥久達 ⑦久連 続く~ |
ところで,喜入といえば,小松帯刀の実家として知られる肝付三男家の喜入家が有名です。ただ,この島津喜入家は少し複雑な経緯をたどっています。

秀吉の太閤検地に関わる騒動のときは喜入と薩摩鹿籠(枕崎市)をあわせて領有していましたが,六代・久道の頃に永吉村へ転封となり,文禄4年(1595)には喜入の地は肝付氏の領有に戻りました。
さらに七代・忠続の頃には再び薩摩鹿籠へ転封され,江戸時代にはその地のみを領有することになります。しかし,その後,藩主島津光久の子が養子として家督を継いだことで,家格は一所持とされました。
江戸時代の薩摩藩
三代将軍家光の時代になると幕藩体制も盤石となり,薩摩藩でもそれに倣って,寛永年間(1624~1644年)以降,領主や地頭を鹿児島城下に住まわせる方針がとられるようになりました。ただし,長島や甑島では,離島防衛を固める必要があったため,その後も地頭が現地に住み続ける「居地頭制」がとられていました。
喜入の麓は,1595年から肝付氏が代々居城していた給黎城(中世城郭)の裾に形成された麓集落を中心としていました。しかし1653年,三代領主の時代に居館が現在の喜入小学校付近へ移され,新たな麓が築かれました。移転先は,指宿へ向かう街道に近い現喜入小敷地で,これによって給黎城はその役割を終えることになりました。
友人の義岡君
かつて石井出用水のことを調べる中で,用水沿いの屋敷跡を調べたことがあります。その中に,大身分(上級家臣)の花岡島津家・義岡家・比志島家・肝付家・川田家・畠山家・市田家・市来家・岩下家・調所家・川上家・町田家などの添地が見受けられました。また当時住んでいた屋敷の方のお話を聞くと,江戸期までは上町や千石町,山之口町など城下士の流れだった方が多かったのです。

・ 永吉の義岡邸前~かつては道路の半分が用水でした。昭和に入り道幅を広げるために用水路の幅が狭められました。
中学校時代の友人義岡君の家は,永吉の石井出用水沿いにありました。義岡君の家は武家の出で,先祖は喜入島津家の流れをくむ家柄だったようです。本家は千石馬場交差点近くの平之町にあったそうですが,添地(※)は原良や永吉の用水沿いにありました。もともとは鹿児島・平之町の屋敷に付属する添地だったようです。
※ 江戸時代の添地とは,本屋敷地や役所地,村の土地に付け足された補助的な土地のことです。武家屋敷や寺社などを維持するための収入源として設けられ,田畑や地所が添地として与えられることもありました。幕末になると,藩をはじめ多くの城下士たちは財政難に陥ります。そこで藩は,新たに開発した石井出用水沿いの土地を,大身分(上級家臣)の家々に添地として与えていました。
現在では,義岡邸をはじめ多くの武家屋敷は持ち主も代わり,建て替えなどによって往時の面影を残す場所は少なくなっています。
