終活と墓じまい
先日,親しくしていた一つ年上の高校時代の先輩の訃報が新聞に載っていました。県外だったためお別れに伺うことはできませんでしたが,同世代の訃報だけに,いろいろなことを考えさせられました。終活を意識する年齢になると,友人や知人の訃報に接する機会も少しずつ増えてきます。そのたびに,自分がこの世を去った後のことや,先祖代々受け継がれてきた墓をこれからどう守っていくのかなど,これまであまり考えなかったことに思いを巡らせるようになりました。
また,子どもたちも将来は地元に戻らないようですし,お墓の管理で負担をかけたくないという思いもあります。お墓は建てるだけでなく,その後の維持管理も大変です。そんなこともあって,最近は夫婦で「墓じまい」や「樹木葬」,「永代供養」について話し合うことが増えました。
子どもの頃は広い墓地を遊び場にしていた私が,今では墓じまいなどについて考える年齢になりました。時代の変化とともに,自分もまた歳を重ねてきたのだなあとしみじみ感じます。

・笑岳寺墓地跡(鹿児島市西田3丁目)
塀に囲まれた東京の墓地
私が小さい頃は田畑が広がり,遊べる場所といえば河川敷やお寺,墓地ぐらいしかなく,子どもたちにとってはごく普通の遊び場でした。そのため,墓地は怪談話の舞台になることはあっても,特別に怖い場所という感覚はあまりありませんでした。
ただ,初盆や三回忌の時期になると,墓の周りに囲いが作られたり,「盆灯籠」や「盆提灯」が飾られたりします。そんな光景を見ると,近くを通る際には自然と手を合わせたものです。

私が初めて墓地の霊を意識し,「少し怖いな」と感じたのは東京での学生時代でした。小石川や杉並区の外れに住んでいた頃,住宅街の中には寺院墓地が点在していました。墓地は高い塀に囲まれていて墓石は見えません。
しかし,塀の向こうには何本もの卒塔婆だけが並んで見えます。夜になると,その卒塔婆が妙に目につき,その脇の道を通ってアパートへ帰るときには,子どもの頃は平気で遊んでいた墓地なのに,見えない墓石と卒塔婆だけが並ぶ東京の寺院墓地には,どこか霊の気配のようなものを感じてしまったのです。
父方の墓は武岡墓地,母方の墓は唐湊墓地にありましたので,墓参りにはよく行っていました。母は生前,「墓参りが大変だから」と言って墓を納骨堂タイプに変えました。そして両親も,自宅近くの比較的便利な場所にある納骨堂に納めてあります。雨風の心配がなく,墓掃除の必要もないので助かっています。唐湊墓地は駐車場から墓まで数百メートル歩かなければならず,かなり楽になりました。年齢のせいもあるのでしょうが,どうしても足が遠のきがちで,墓参りは年に数回ほどになっています。

・ 幕末の鹿児島城下絵図より
妻の実家の土葬について
現在,鹿児島市では墓地条例(第13条)により,「墓地には焼骨でなければ埋葬することができない」と定められています。しかし,市内でも昭和30年代頃までは土葬が行われていたそうですし,地方によっては昭和50年代まで続いていたところもあったようです。
妻の故郷では,昭和53年に祖父が亡くなった際,実際に土葬が行われたそうです。丸い棺桶に遺体を納め,墓地に掘った穴へ埋葬する様子を,妻は今でも鮮明に覚えていると言います。
また,一族の墓地はかなり広く,その中には十数基もの傾いた墓石が並んでいたそうです。ところが,ある年に先祖の墓を掘り起こして遺骨を取り出し,一つの大きな墓にまとめて建て直したそうです。こうして振り返ると,土葬が当たり前だった時代から火葬中心の時代へ,そして墓じまいや永代供養が語られる時代へと,お墓を取り巻く風景もずいぶん変わったものだと思います。
その後も,何回か土葬されていた遺骨を掘り起こし,新しいお墓へ改葬する作業が行われたそうです。広い墓地に点在していた先祖代々の墓を整理するためです。土中深く埋葬されていた遺骨を掘り出し,残っていたお骨はあらためて火葬したうえで,新しいお墓に納めたと聞きました。実際に掘ってみると,お骨がそのまま残っていることもあったそうです。
区画整理や都市開発
田舎の古い墓地が驚くほど広いのは,一族の人々を代々土葬してきたためでしょう。一人一人を埋葬する場所が必要だったので,広い墓地が造られたのだと思います。
子どもの頃には当たり前のように見えていた広い墓地も,その背景を知ると,そこには土葬の歴史や地域の暮らしの変化が刻まれていたことに気づかされます。遊び場として見ていた墓地の風景も,今振り返ると違った意味を持って見えてくるような気がします。
今では区画整理や都市開発の影響で,都市部の墓地が郊外へ移転する例も増え,周囲の風景はずいぶん変わったように思います。その一方で,久しぶりに近くを通り,マンションや住宅が立ち並ぶ街並みを歩いていると,「ここの一等地もかつては墓地だったのにな…」と考えることがあります。昔の風景を知っているだけに,街の変化と時代の流れをしみじみ感じます。

・武岡麓の墓,寿国寺跡(島津家墓地)武2丁目
高速を降りて武岡トンネルから西田方面へ向かうと,今では高級住宅街が広がっています。しかし,かつて常盤トンネル付近までの山側一帯は,寿国寺や笑岳寺跡の広い墓地が広がっていました。その山肌の斜面には戦時中の陸軍倉庫(高射砲)があり,そこは私たちの秘密基地のような場所で,週末になるとよく遊びに出かけたものです。

・武岡墓地にある笑岳寺跡から移した歴代僧侶の墓石群
昭和48年にこの地区の区画整理が行われ,墓地は武中学校の上にある武岡墓地へ改葬されました。今思い返してみると,当時の墓地が広々として見えたのは,子どもだったからだけでなく,土葬の名残で各家の墓所そのものが広かったからなのかもしれませんね。
ちょっとブレイク

廃寺跡地利用の公共施設
ここで,明治初期の廃寺や墓地跡地が再利用された学校の例として「武小學(現在の西田小学校)」を取り上げてみます。
武小學は明治8年12月,常盤の笑岳寺跡地に創設されました。現在の新幹線常盤トンネル付近から笑岳寺公園にあたり,当時は寺院跡地が学校用地として活用されたのです。西郷の子・牛次郎も通ったと伝えられています。
鹿児島県は明治維新後の廃仏毀釈や寺院整理によって,一時期に多くの寺院や墓地が姿を消しました。一方で,学制発布後は学校設置が急務となり,寺院跡地や境内地は校舎用地として利用されることが少なくありませんでした。武小學もその代表的な事例の一つといえるでしょう。

武岡の中腹に「武小學発祥之地」の記念碑がありますが,この「武小學」は現在の武小学校を指すものではありません。現在の武小学校は,昭和12年に中洲小学校から分離して創立された学校です。一方,西田小学校は明治8年に創設され,学校創設当時の場所から「武小学」と呼ばれていました。校門には,「武村の吉」こと西郷隆盛が書いた「武小学」の門札が掲げられていたそうです。学校の歴史をたどると,その由来が見えてきます。
「武小學」の石碑について

①新幹線トンネルの近く
| 明治6年11月,下野した西郷隆盛は鹿児島へ帰り,その後は主に武村の自宅で過ごしていました。ときには狩猟に出かけたり,山川の鰻温泉で静養したりしており,まだ比較的穏やかな日々を送っていたようです。 その頃の明治8年には,武岡の麓にあった笑岳寺跡地に,西田小の前身となる「武小学」が創設されました。明治維新前後の廃仏毀釈が(全国一)激しかった鹿児島県では,廃寺となった寺院の建物や広い跡地が学校や役場などの公共施設として利用されることもありました。笑岳寺跡地もその一つで,一時期は学校用地として活用されました。 明治初期の郷学校や小学は,次第に学制に基づく正則学校へ改編され,近代的な小学校へと発展していきました。「武小学」や「山下小学」なども,こうした学校制度改革の流れの中で整備された学校です。 幕末から明治初期にかけては,藩校を前身とする郷校や寺子屋が各地に広がり,近代学校制度の基礎となりました。明治維新後は,藩校や郷校を改革して「小学」を設け,庶民にも門戸を開きました。学制公布後しばらくすると,多くの郷校は小学校へと移行していきました。「武村の吉どん」が筆をとった額が掲げられたのも,この比較的穏やかな時期のことです。しかし,明治9年に入ると状況は大きく変わります。政府による廃刀令や秩禄処分が実施され,士族の不満は次第に高まり,やがて西南戦争へと暴発していきました。 |

・学舎三巡「①笑岳寺墓地②西田二丁目③現在地」
ところで,明治8年当時,笑岳寺は常盤野元に属し,一方の壽國寺は武村にありました。そう考えると,学校名が「常盤小学」ではなく「武小学」だったのは少し不思議です。もっとも,当時の小学校は武村だけでなく西田や常盤など広い範囲の子どもたちを対象としていたため,武地区を代表する名称として「武小学」と名付けられたのでしょう。
②明治期に移った西田尋常小学校

・西田2丁目山形屋ストア近く(明治36年鹿児島市街實地路査図)より
なお,現在の武小学校は昭和12年に中洲小学校から分離して創立された学校であり,明治期の武小学とは直接の関係はないようです。また,明治中期になると武小学は現在の山形屋ストア付近(西田二丁目)へ移転し,西田尋常小学校と名称変更されています。

③現在の地に移った西田小
武の地名由来
| 「武」という地名は,かつて「田毛」や「田下」「嶽」と書かれていたとされ,稲作地帯に由来するといわれています。また,「タ(田)」と「ケ(場所)」が結び付いて「田処(たどころ)」や田園地帯を意味したという説もあります。 さらに,水路との関係から,田園地帯の上流を「田上」,下流を「田下(たげ)」と呼び,その「たげ」が転じて「たけ」となり,後に「武」の字が当てられたという説もあるようです。 また,この地は古くは海岸線が目前まで迫る地形で,その背後には標高100メートルを超える山がそびえていました。「嶽」の名は,シラス地形の浸食によって形成された大きい山,そして海岸線に迫る険しい山容に由来するものと考えられます。 |
