後任の校長へ~そして突然の死
前回の教職員住宅に住むのは義務?の続きです。
Y校長先生の突然の急逝によって,A教頭先生の日常は一変しました。それまでの教頭としての仕事に加え,休まる暇もないほど多くの対応に追われる日々が始まったのです。

教頭職の大変さの一つに,日常の業務に加えて,事件や事故が発生した際の対応があります。A教頭先生の場合も,教育委員会への報告をはじめ,職員や児童,PTA,地域への対応,さらには遺族への配慮など,多くの課題が短期間のうちに一気に押し寄せました。
さらに,校長先生の急逝に伴い,A教頭先生自身が後任校長として登用されることになり,面接や引継ぎ,新しい職務の準備,そして校長住宅への引越しまで重なりました。ただでさえ精神的にも肉体的にも厳しい状況の中で,心身を休める時間を十分に確保することは難しかったのではないでしょうか。睡眠不足や疲労も,相当蓄積していたように思います。
私自身も,これまで突然亡くなられた教員仲間や友人,保護者の方々を見てきました。後になって周囲の話を聞くと,深刻な悩みを一人で抱え込み,相談できる相手がいなかったり,ほんの少しでも休息を取ったりする時間があれば違った結果になっていたのではないかと思うことが少なくありませんでした。
もちろん,A教頭先生の急逝の医学的な診断は出されていましたが,それまで特に健康上の大きな問題はなかったそうです。しかし,当時の過酷な状況を振り返るたびに,周囲がもう少し負担を分かち合い,ほんの少しでも心身を休める時間が確保できていたなら,あの突然の別れは避けられたのではないか,そんな思いが,今でも頭から離れないのです。
PTA役員
A教頭先生は,校長になっても住んでいた学校の近くの教頭住宅から通勤するつもりだったそうです。ところが,PTA役員の方々が校長室を訪れ,「まさか先生まで噂や迷信を信じているじゃないでしょうね。本校には校長住宅があるのですから,空けたままでは困ります。早く入居してください。」と強く勧められたといいます。なぜ保護者の立場でそこまで言うのか,その理由は聞けなかったそうですが,強い要望を受けて入居を決めたそうです。

一方で,校長住宅については,地方公共団体や教育委員会の内部規程で原則として校長が入居することになっている市町村もあるそうです。しかし,この校長住宅では,前の校長先生の奥様に続き,その次の校長先生まで不自然な亡くなり方をされていました。そうした経緯を知れば,誰でも住むことに不安を感じるのは当然ではないでしょうか。民間企業でも,社宅で自殺や死亡事故などが続いた場合には,本人や家族への心理的負担を考慮し,入居を見合わせたり,新しく改築したりするケースが多いといわれています。
さらに驚いたのは,PTAだけでなく,教育委員会からも「できれば校長住宅を空けないでほしい」と入居を求められたことです。住宅は畳を替えた程度で,大きな改修は行われなかったそうです。その話を聞いたA校長先生の奥様は,「現在,住んでいる住宅があるのに,どうして移らなければならないのか」と悔しそうに話しておられました。その一言からも,ご夫妻が大きな心理的負担を抱えながら入居されたことが伝わってきました。
教職員住宅にすむ義務
本来,教職員住宅には「必ず住まなければならない」という法的義務はありません。自治体によっては内部規程で原則入居としている場合もありますが,このように事故による心理的な事情を抱えた住宅であれば,住むかどうかは本人と家族の気持ちを第一に考えて判断してよいはずです。
実際に暮らすのは校長先生一人ではなく家族も含まれています。夜間や休日をその住宅で過ごす家族の不安や精神的な負担,そして現実に別の住まいを選べるかどうかまで含めて考えることが大切だと思います。

これは「入居させることが違法でなければ我慢すればよい」という問題ではありません。校長という重い責任を長く果たしていくためにも,本人だけでなく家族が安心して生活できる環境を整えることが何より重要です。強い不安を抱えたまま生活を続ければ,心身にさまざまな精神的影響が現れ,こどもを預かる学校の最高責任者として職務上にも問題が発生する可能性もあります。
日本では,「公共の福祉」に反しない限り,法によって居住・移転の自由が保障されており,どこに住むかは本来,個人の意思が尊重されるべきものです。ただし,警察署長のように,重大事件や災害に迅速に対応する必要がある職務では,勤務先近くの公舎への居住が事実上求められることがあります。こうした例外は,職務上の必要性が明確だからこそ認められているものです。その点を考えると,教職員住宅についても,形式的に入居を求めるのではなく,この話のように住宅が抱える事情や家族の心理的負担にも十分配慮した対応が必要ではないかと,今でも思っています。
戦時中にもなかった法律
戦時中の学校長には,校舎や備品,重要書類を管理する重い責任がありました。その職務は法令や文部省の通達・訓令によって定められ,特に「御真影」や「教育勅語」は学校で最も重要な物件として厳重に管理されていたそうです。当時は宿日直制度もあり,教職員は夜間も学校に詰めて,火災や盗難,災害に備えるとともに,御真影や教育勅語を守ることも大切な任務でした。

しかしその一方で,校長住宅は明治時代から学校の近くに設けられることが多かったものの,戦時中であっても「校長は必ず校長住宅に住まなければならない」と定めた特別な法律があったわけではありません。後になって調べてみると,校長住宅への入居は,法律というよりも長年の慣習や地域の実情によって受け継がれてきた面が大きかったことが分かりました。
スライド昇格
Y校長が亡くなられた後,教頭だったA教頭がそのまま校長に昇格しました。本来なら学校の規模に見合った校長が新たに赴任するのが一般的ですが,校長夫人の自殺に続き,Y校長まで急逝するという異例の事態だったため,学校運営の継続性を優先し,教頭から昇格させる措置が取られたのでした。

A校長は町の教頭会長を務めるなど経験豊富な方でしたが,職員にとっては昨日まで教頭先生だった人が校長になるわけですから,「スライド昇格」ならではの難しさもあったように思います。
その後,PTA役員や教育委員会から「校長住宅を空けないでほしい」と強く要望され,A校長は学校近くの教頭住宅を離れ,しばらく空き家になっていた校長住宅へ引っ越すことになりました。親しかった教頭会の仲間で引っ越しを手伝い,その夜の懇親会で,本人から当時の経緯を聞いたことを今でも覚えています。
ところが,引っ越し後まもなくA校長は校長住宅の風呂場で倒れ,意識不明のまま病院へ搬送されました。懸命な治療が続けられましたが,そのまま帰らぬ人となりました。こうしてこの校長住宅では,校長夫人,Y校長,そしてA校長と,三人が短期間で相次いで亡くなるという痛ましい出来事が続いたのです。亡くなったとき,A校長のご遺体は病院から校長住宅へ戻され,学校では「お別れの会」が営まれ,町内の校長先生や教頭先生の奥様方が住宅の前で静かに最後のお別れをされたそうです。
もちろん,これらは偶然が重なった結果に過ぎません。しかし,不幸が相次いだことで地域にはさまざまな憶測が広がり,「終戦後以降,この住宅で何人か先生が亡くなったらしい」「もともと墓地だったから風水が悪い」「最初に亡くなった奥様の祟りではないか」など,根拠のない噂までささやかれるようになったそうです。
A校長の後任の校長先生が赴任されたときも,「奥様の命日が近づくと,また何か起こるのではないか」と噂する保護者が少なくなかったそうで,妻も実際に何人かからその話を聞いていました。もちろん,こうした噂に何の根拠もありません。しかし,短い期間に三人もの方が相次いで亡くなったという事実は,地域の人々に大きな衝撃を与え,校長住宅に対する拭い難い心理的不安を残したのだと思います。
人は理解し難い出来事が続くと,何らかの理由を求めようとするものです。そのため,偶然が重なった出来事であっても,さまざまな話が尾ひれを付けて語られ,いつしか事実であるかのように受け止められてしまうことも少なくありませんでした。
校区内に住むことが条件
昔は,学校の教職員は「校区内に住むのが当たり前」という時代がありました。今ではかなり緩和されましたが,当時は事実上の慣習のようなもので,特に若い教職員には強く求められていました。
私も初任校では,当然のように校区内の借家を借りて暮らしていました。そして二年目に結婚しましたが,妻は私立幼稚園の教諭として働いており,毎日帰宅が夜の11時近くになることも珍しくなく,忙しい日は日付が変わってから帰ることもありました。そんな生活を続けるには校区内では不便だったため,私は校区を離れ,妻の職場に近い新しいアパートへ引っ越すことにしました。
すると,一部の保護者や地域の公民館役員の方から,「先生が校区外に住むのはどういうことなのか」「毎日の通勤お疲れでしょう。ご苦労様です。」と嫌味を言われたことがありました。今では考えにくいことですが,当時は教職員,それも若い先生は校区内に住むことが絶対条件というような空気が確かにあったのです。
今振り返ると,教職員は地域社会の一員として学校と地域を支える存在であることが強く期待され,その一方で,私生活や家庭の事情よりも地域への貢献が優先される時代だったように思います。働き方やプライバシーに対する考え方が大きく変わった今では,当時との時代の違いをあらためて感じます。
今回紹介したこのエピソードは,現在の若い世代には必ずしも当てはまらない部分もあるかもしれません。しかし,教員離れが進む背景や,教職を取り巻く環境の変化を考える一つの材料として,話題にしていただければ幸いです。
参考資料
(1)住宅のガイドライン
| 「宅地建物取引業のガイドライン」では,他殺・自殺・事故死などがあった物件について,心理的影響(瑕疵)への対応が示されています。そのため,一般の賃貸住宅では,入居者に事前に告知が行われたり,家賃の減額やリフォームなどの配慮がなされたりすることが多いようです。 一方,校長(教頭)住宅にはそのような仕組みがほとんどなく,室内で自殺があった住宅であっても,十分な配慮がないまま入居を求められる場合が多いのです。 校長住宅も,人が日常生活を営む住まいであることに変わりはありません。警察や自衛隊などの公舎とは異なり,校長住宅には法的な居住義務はありませんが,地域社会の慣行や人事上の事情から,実質的に入居を求められることも少なくありません。そのような場合であっても,在任期間中,安心して暮らせる住環境が確保されることが望ましいと考えています。 |
(2)本県の教職員住宅の変遷について
| 終戦直後の日本は,戦災による深刻な住宅不足の時代でした。交通網も未発達で,地方へ赴任した教職員は住まいを確保するだけでも大変でした。 こうした状況を受け,鹿児島県でも戦後の教員確保策として,昭和30~40年代,離島やへき地で教職員住宅の整備が進められました。とりわけ離島や山間部では,地域の人々が力を合わせ,子どもたちを育てる先生を迎えようと住宅を建設した例も少なくありません。 振り返れば,教職員住宅は単なる住まいではなく,地域が教育を支え,教職員を温かく迎えようとした時代を象徴する存在だったのだと思います。 例えば,奄美群島やトカラ列島,三島村などの離島では,教員を確保すること自体が大きな課題でした。戦後間もない頃は住む家も少なく,民家に間借り(下宿)したり,学校の一室を仮住まいにしたりすることもあったそうです。そのため,町や村が予算を工面し,地域の人たちも協力して教職員住宅を建設し,先生方を迎え入れました。また,大隅半島や薩摩半島の山間部でも,交通の不便な地域では教職員住宅は欠かせない存在でした。 私が教職に就いた頃も,離島の学校では多くの先生方が教職員住宅で生活していました。それは単なる福利厚生施設ではなく,「先生に来てもらいたい」という地域の切実な願いが形になったものだったと思います。 老朽化により各地で姿を消しつつありますが,教職員住宅は地域が教育を支えた時代と,そこで暮らした教職員の歩みを今に伝える貴重な証しでもあったのではないでしょうか。 住宅の役割の変化 高度経済成長が進むにつれて道路が整備され,自家用車が普及し,民間のアパートや借家も増えていきました。それに伴い,教職員住宅が担ってきた役割も少しずつ小さくなっていきます。建物の老朽化や入居者の減少も重なり,改築せずに廃止する自治体が増え,自宅や民間住宅から通勤する教職員も多くなりました。 さらに近年では,職場でも家でも同僚と顔を合わせる生活を負担に感じ,プライベートを重視して民間住宅を選ぶ教職員も増えています。企業でも社宅制度の見直しが進み,教職員住宅のあり方そのものが問われる時代になりました。また,「教職員住宅は税金の無駄遣いではないか」「一部の教職員だけが安い家賃で住めるのは公平ではない」といった声が聞かれるようになったのも事実です。 しかし,教職員住宅には,そうした議論だけでは語れない歴史があります。離島や山間部が多い鹿児島県では,地域の子どもたちの教育を支えるため,教職員を迎えることは地域全体の切実な願いでした。奄美群島やトカラ列島,三島村などでは,町や集落が力を合わせて教職員住宅を建て,先生方を迎え入れた地域も少なくありませんでした。 |

