外国人の生活保護について

法令と通知の範囲とは

 近年,中国人や東南アジア諸国からの外国人が永住許可後に生活保護を申請・受給するケースが増え社会問題になっているようです。

 外国人への生活保護は,法律によって認められた制度ではなく,昭和29(1954)年に厚生省社会局長が発出した通知に基づく行政措置として運用されているものなのです。
 この通知は,昭和27(1952)年のサンフランシスコ平和条約の発効により,いきなり日本国籍を失った台湾人朝鮮人が制度上の不利益を受けないよう,全国の市町村からの強い要請を受けて出されたものでした。

 
しかし,その後は,この通知が本来想定していた対象や趣旨を超えて拡大解釈され,「当分の間」とされた措置が70年以上継続して運用されるとともに,人道上の配慮を理由として適用対象が広がり,多くの外国人にも生活保護が行われるようになりました。
 その一方で,本来保護を必要とする日本人への支援に影響が及んでいるのではないかとの指摘もあります。

 一方,生活保護法第1条では,保護の対象を「国民」と定めており,平成26(2014)年の最高裁判決でも,外国人には生活保護法が適用または準用される法的根拠はないと判断されています。このように,法律の規定と通知による行政運用との間にどこまでの範囲が認められるのかという点が,現在も議論の対象となっているのです。

台湾人と朝鮮人の取扱いの経緯

 1945(昭和20)年の終戦までは,日本の統治下にあった台湾人と朝鮮人は「日本臣民」とされ,日本国籍を有する者として位置付けられていました。そのため,1950(昭和25)年5月20日に出された通知では,日本に居住する台湾人・朝鮮人のうち,まだ「日本国籍を離脱した事実のない者」については,生活保護法の適用に当分の間日本人と同様に取り扱うという考え方が示されました

(1) サンフランシスコ平和条約
 1952(昭和27)年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し,日本は朝鮮の独立を正式に承認しました。これにより,それまで日本国籍を有していた在日台湾人や朝鮮人は,自らの意思とは関係なく日本国籍を喪失したとされています。また,同日に公布・施行された外国人登録法により,在日台湾人や朝鮮人は日本法上「外国人」として登録・管理される仕組みに移行しました。
 一方で,日本政府は,終戦まで日本国民として生活してきた経緯や日本への定住実態を考慮し,これらの人々については,当時多かった中国人などの外国人よりも安定した在留資格を認める方向で制度を整備していきました。当時,生活に困窮した在日台湾人や朝鮮人への対応については,全国市町村役場から取扱いの明確化を求める声が高まり,その運用基準を示すため,1954年5月に厚生省社会局長通知が発せられたのです。
(2)  厚生省社会局長の通知
 1954(昭和29)年5月8日,厚生省社会局長名で「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」という通知が出されました。この通知では,生活に困窮する外国人に対し,生活保護法そのものを「適用」するのではなく,「生活保護法による保護に準じた措置」を行政上の措置として行うという考え方が示されました。
 その後,この通知の運用は,当初想定されていた在日朝鮮人や台湾人だけでなく,生活に困窮するその他の外国人にも人道上の観点から広げられ,現在では永住者や特別永住者,日本人の配偶者など一定の在留資格を持つ外国人も,生活保護法に準じた行政措置の対象とされています。
 最高裁判所も平成26(2014)年7月の判決で,外国人は生活保護法上の権利者ではなく,行政庁の通知に基づく行政措置として事実上保護の対象となり得ると判断しています。一方で,行政庁は,昭和29年通知に基づく行政措置として事実上の保護を行うことはできるとの考え方を示しており,外国人の受入れや移民問題も含め,今後の法的な制度の在り方が新たな課題となっています。
 また,通知にある「当分の間(日本国籍を奪われた者が戻れるまで…)という文言についても,政府は特定の期限を設けたものではなく,現在も生活に困窮する日本国籍を持たない外国人が存在することから,現時点で通知を見直す状況にはないとの考えを示しています。そのため,当初の通知が想定していた対象を超えて外国人への生活保護が運用されていることについては,その法的根拠や通知の解釈をめぐり,現在もさまざまな議論が続いています。

生活保護とは

 私は教頭時代,「準要保護世帯」の認定事務を担当していました。

 その中で,生活保護が必要と思われる家庭について,民生委員福祉事務所へ何度も相談しましたが,当時の市町村の財政事情などもあり,認定にはつながりませんでした。また,町内の管理職研修会では,借金苦から保護者が命を絶ち,残された子どもたちが施設へ送られるという痛ましい出来事についても,何度となく耳にしてきました。

 一方,近年は外国人への生活保護をめぐるさまざまな報道や事例が取り上げられています。それらに触れるたびに,私が現場で見聞きしてきた日本人家庭への対応との違いを感じる場面があり,複雑な思いを抱くことがあります。もちろん,これは約30年前の経験であり,現在の制度や運用とは異なっている部分もあるでしょう。また,一人一人が置かれた事情は異なるため,単純に比較できる問題ではありません。

 それでも,実際に現場で生活保護に関わる家庭への対応を経験し,その後の制度の変化や社会の動きを見てきた一人として,この問題について一度,自分なりに制度の成り立ちや法的な位置付けを整理しながら考えてみたいと思いました。

 私たちは,病気や事故,失業,災害など,自分の力だけでは生活を立て直すことが難しい事情によって,生活に困窮することがあります。
 生活保護は,このような場合に,日本国憲法第25条の理念に基づき,日本国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するとともに,自立を支援することを目的とした制度です。生活保護を受けると,生活費が支給されるだけでなく,原則として医療費が公費で負担されるほか,住民税などの税金や各種保険料についても,一定の減免や免除を受けられる場合があります。
 ① 生活扶助(食費,衣類,光熱水費など)
 ② 住宅扶助(家賃や地代,補修費など)
 ③ 教育扶助(学用品費,給食費など)
 ④ 医療扶助(診察や薬代などの医療費
 ⑤ 介護扶助(介護サービスに必要な費用)
 ⑥ 出産扶助(出産に必要な費用)
 ⑦ 生業扶助(就職や技能習得などの費用)
 ⑧ 葬祭扶助(葬祭に必要な費用)

県内の朝鮮人集落

 かつて,勤務地市町村の周辺にあった戦時中の特攻飛行場や海軍基地の歴史を調べていた際,朝鮮人二世が多く暮らす集落で,一人の古老から直接話を伺う機会がありました。その方は現在の北朝鮮出身で,「高い賃金を求めて日本へ渡ってきた」と話しており,当時,新聞やテレビなどで日本軍による強制連行が話題になっていましたが「自分たちの場合は強制連行ではなかった」とも語っていました。また,その方は朝鮮の「銃後奉公会」を通じて鹿児島へ来たことや,日本へ渡ってきた当時は朝鮮半島はまだ一つの国でしたが,終戦後の朝鮮戦争による南北分断で帰国できなくなった人も少なくなかったことなども話してくださいました。もちろん,これは一人の方から伺った体験談であり,当時のすべてのケースを示すものではありませんが,私にとっては当時の時代背景を考える上で大変印象に残る話でした。

 その方によると,鹿児島へ来た目的は建設工事に従事するためだったそうです。しかし,当時はその現場が飛行場であることも,それが特攻作戦に使用されることも当然知らず,戦後になって初めてその事実を知ったと話していました。また,地元の郷土史家の調査によると,その町だけでも朝鮮人集落が数か所あり,多い時には4,000人を超える朝鮮人労働者が暮らしていたとされています。

 これらの人々は台湾や朝鮮の出身で,日本統治下(台湾約50年間,朝鮮約35年間)では日本国籍を有していました。しかし,1952(昭和27)年のサンフランシスコ平和条約の発効に伴う法的措置によって日本国籍を失い,外国人として扱われるようになりました。その後,長い年月を経て,帰化などの手続によって日本国籍を取得した人もいます。

 なお,戦時中の朝鮮人労働者の来日経緯は一様ではなく,自ら応募した人,官あっせんによって渡日した人,国民徴用令に基づいて動員された人など,時期や制度によってさまざまな形態がありました。私が話を伺った方によれば,その町の飛行場建設に従事した人たちは,自ら応募して日本へ渡ってきた人が多かったそうです。また,日本国籍を失った人々の中には,その後の国籍や在留資格をめぐる問題が長く続き,平成の時代になってようやく帰化により日本国籍を取得した人もいたと聞いています。

銃後奉公会の結成「村の在郷軍人会」との連携

 日中戦争が長期化し,大陸へ出征する兵士が増えると,「国民皆兵」や「隣保相扶」の精神のもと,昭和14(1939)年頃から鹿児島県内の各市町村でも「銃後奉公会」が結成されました。この組織は事務所は役場に置かれ,密接に連携して取り組んでいました。こうして,ドラマなどでもよく耳にする「銃後の守り」という言葉が広く掲げられ,人々には戦地の兵士を国内から支え,地域が一丸となって戦争に協力することが求められるようになりました。

 一方,各町の「在郷軍人会(予備役・退役軍人の全国組織)」は,地域の有力者を役員として組織され,出征軍人や遺家族への援護に加え,朝鮮人集落の治安や保健衛生の管理,その状況を定期的に報告するなどの役割も担っていました。

 また,「銃後奉公会(市町村単位の地域組織)」の主な活動は,兵役義務の昂揚や隣保相扶の精神の普及,傷痍軍人や戦没者遺族への援護,出征軍人の家業支援,弔慰・弔問・慰藉,さらには軍事援護思想の普及などでした。そのため,予算の多くは軍隊慰問費や戦死者家族への慰問・慰藉費,「生活援護費」などに充てられ,出征軍人とその家族を物心両面から支えることが,銃後に残された国民の重要な役割と考えられていました。

 こうした「銃後奉公会」の体制は台湾や朝鮮でも整備され,現地では軍人援護会の業務を担う組織として運営されていました。また,日本ではこれらの軍人援護行政を厚生省が所管していたことから,戦後に厚生省が台湾人や朝鮮人を対象とする生活保護に関する通知を出した背景には,戦時中から続く軍人援護行政や,その組織とのつながりがあったと考えられます。

 もっとも,台湾では昭和17(1942)年の特別志願兵制度,朝鮮では昭和19(1944)年の徴兵制導入を契機として軍事援護団体が整備されるなど,その設立の経緯は地域によって異なっていました。しかし,いずれも内地の「銃後奉公会」体制を基盤としながら,現地では軍人援護を担う組織として発展し,戦後はその行政の流れが厚生省による援護行政や,昭和29年の外国人生活保護通知へと受け継がれていったと考えられます。

今後も法制化に向け継続的な議論を

 今回取り上げた「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」という厚生省通知は,戦後の混乱期という特殊な時代背景の中で出された行政通知であり,当時は日本統治下にあった台湾や朝鮮の出身者などへの対応という歴史的事情を踏まえれば,一定の行政的な意義があったことは理解できます。

 しかし,昭和29年通知が出されてから70年以上が経過し,外国人を取り巻く状況や在留資格,社会情勢は大きく変化しています。こうした中,「外国人に対する生活保護訴訟」では,最高裁判所は外国人に対する生活保護は法律上の権利ではなく,行政措置として行われるものであるとの判断を示し,福岡高等裁判所の判決を破棄して,永住資格を有する大分県在住の中国籍女性の請求を退けました。

 これほど大きな社会的争点となっている以上,今後も行政通知だけで運用を続けるのではなく,国会で憲法や社会保障,人道的配慮,財政負担などを含めて幅広く議論し,必要であれば法律として制度の在り方を再検討すべき時期ではないでしょうか。

 生活保護は,生活に困窮する人を支える大切な制度です。一方で,日本人の中には,二束三文とも言えるわずかな山林の所有を理由に,生活保護を受けられなかった事例もあります。だからこそ,外国人への生活保護の在り方も含めて国会で十分な議論を行い,国民が制度に納得し,信頼できる仕組みを築いていくことが大切ではないでしょうか。

 次回は「通知・通達・事務連絡」について,教員に関わるものを紹介します。

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