お盆の墓参り~祈祷師の話

妻の実家の墓参り

 お盆を前に,妻の実家の墓参りに行きました。

 墓は実家の裏手の山側に百数十メートルほど上ったところにあります。毎年のことですが,墓石を掃除しながら,そこに刻まれた一人一人の名前を眺めていると,この一家にどんな人たちが生きていたのだろうと,自然と妻の家族の歴史に思いが向きます。

 墓誌を見ると,義父には兄弟が十数人いるようです。幼くして亡くなった子どもまで含めると大家族だったことが分かります。長男だった義父は,家族を背負う立場として,若い頃からいろいろと苦労したようです。

家族の長男として,地域の公民館長として

 義父は,自衛隊を定年退職した後は役場に勤めながら,公民館長を二十年以上にわたって務めました。妻の実家に泊まると,押し入れには「氏名が刻まれた茶碗や湯呑み,お盆などの食器類」がところ狭しと積み重ねられていてまるで旅館のようでした。以前から,なぜこんなにたくさんあるのだろうと不思議に思っていました。

 どうやら,公民館での会合に貸し出したり,地域の人たちが自宅に集まって宴会を開いたりするときに使っていたようです。振り返ってみると,そうした食器の一つ一つにも,義父が長年にわたって地域の人たちと関わってきた跡が残っていたのかもしれません。長男として家族を支え,そして公民館長として地域を支える。その立場の中で,目立つことなく,黙々と自分の役割を果たした人だったのだと思います。

墓誌(法名碑)を見て

 そんな話を聞いていると,墓石に刻まれた名前が,単なる名前ではなくなってきます。どの人にも仕事があり,家族があり,喜びや苦労があり,最後までその人なりの人生があったのだと思えてきます。お盆に墓を掃除するというのは,単に墓石をきれいにするだけではないようです。ここに眠る人たちのことを親戚縁者から聞き,これまで知らなかった昔の出来事を知り,その人たちが生きた時代に少しだけ思いを寄せる。そんな時間でもあるのでしょう。

 私は妻に墓石に刻まれた一人一人を教えてもらいながら,掃除をしていきました。名前を見る限り,この一家は女系家系のようです。法事などで親戚が集まると,中々にぎやかです。特におばさんたちが集まると,その勢いには圧倒されます。こちらが聞いていなくても,「そういえば,あの人はね…」「昔,こんなことがあってね…」と,次々と話題が変わっていきます。

 私は,そんな話を聞くのを楽しみにしていました。墓石に刻まれた名前だけでは分からない家族の歴史が,親戚のおばさんたちの話によって,少しずつ具体的に見えてくるからです。墓石に刻まれているのは名前と年月日だけですが,その一つ一つには,家族の記憶があります。こうした昔話も,家族の記憶を次の世代へ伝えていく大切な役割を果たしているのでしょう。

 今年のお盆も,そこに眠る人たちがどんな人生を生きたのかを思い,親戚のおばさんたちの話に耳を傾けることになりそうです。そうやって聞いた話を自分の中に残しておくことも,先に生きた人たちから受け取った大切な「家族の記憶」なのかもしれません。

 今回は,そんな親戚のおばさんたちから聞いた話の中から,印象に残った二つの話を紹介します。

飛行機事故で亡くなった叔父さん

 まず,墓石の横にある,納骨されている人の氏名や没年月日などを刻んだ「墓誌(法名碑)」を見てみると,私には見覚えのない名前が刻まれていました。妻に聞いてみると,義父の妹のご主人で,自衛隊機の墜落事故で亡くなった叔父さんだということでした。

 そこで少し調べてみると,昭和47年(1972年)7月26日,海上自衛隊下総基地から鹿屋へ向かっていた対潜哨戒機P2V-7が,鹿屋飛行場への着陸を前にして視界が悪くなり,レーダーによる誘導を求めた際,操縦側と基地側との間で何らかの食い違いが生じ,高隈山系の中岳中腹に激突した事故だったようです。事故後すぐに捜索隊や処理班が現場に向かったようですが,遺体が家族のもとに戻るまでには約2か月を要したそうで,墓誌には「昭和47年9月26日」と刻まれていました。以前,おばさんたちから聞いた話では,その中岳の麓には亡くなった叔父のご先祖の墓があったそうで,「きっとお盆を前に先祖のいる場所に呼ばれたのだろう」と話していました。事故の詳しい経緯と,お盆と言う不思議なエピソードの一つになりました。

バイク事故で亡くなった叔父さん

 もう一つ,義父のすぐ下の弟にまつわる話があります。

 その叔父は,長年,地元で自営業を営んでいました。ところが,妻に先立たれてから,次第にふさぎ込むようになり,やがて認知症を患ってしまいました。

 そして家族にとっても,たいへんな日々が続いたようです。認知症になっても,体はいたって丈夫でした。そのため,オートバイに乗って一人であちこちへ出かけてしまいます。ところが,出かけた先で自分がどこにいるのか分からなくなってしまい立ち尽くす。すると,警察から連絡が入り,家族が迎えに行く。そんなことが何度も繰り返されたそうです。そのたびに家族は心配し,行方を探し,迎えに行かなければなりません。私も母の認知症で同じような経験がありますが,これが結構大変なことなのです。

 ところが,ある日のことです。また叔父がいなくなりました。これまでなら警察から連絡が来るはずなのに,今回は二日たち三日たっても連絡がありません。家族が心配しているところへ,先のおばさんたちが訪ねてきて,ある祈祷師を紹介してくれたそうです。この祈祷師については,私も以前,義母から直接話を聞いたことがあります。その町界隈ではかなり有名な祈祷師だったようです。家族も,叔父が見つからないという切羽詰まった状況の中で,藁にもすがるような思いで,その祈祷師のところへ相談に行ったそうです。

 すると,その祈祷師は,叔父が「亡くなった妻の実家がある中岳麓の集落へ行っている」と告げたそうです。そして,「妻の実家近くにある崖下の沢にいる」というのです。家族が半信半疑ながらも,その場所を探しに行き,沢を下っていくと,奥の方でオートバイと叔父を発見したそうです。しかし,そこは道路から現場を見ることのできない場所でした。そのため警察に連絡すると,なぜその場所にいることが分かったのかなど,かなり厳しく事情を聞かれたそうです

・高隈山系中岳と大川内神社

 叔父は,そこで亡くなっていました。おばさんたちは,「認知症になっても,亡くなった奥さんのことは忘れられなかったのだろう。奥さんを迎えに行ったのかもしれないね」と話していたそうです。もちろん,それが本当に叔父の思いだったのかは分かりません。ただ,奥さんを亡くしてからふさぎ込むようになり,認知症になってからも何度も一人で出かけていた叔父が,最後に向かった先が亡き妻の実家のある集落だったということには,生前の姿を思い出すと感じるものがいくつかありました。

 そして,ここも先の話と同じ,高隈山系の中岳の麓にある集落でした。こうして振り返ってみると,私が後になって知ったこの二つの話は,どちらも同じ山の麓の地域で起きていました。墓誌に刻まれた一人の名前から始まった義父の家族の歴史をたどっていくと,そこには戦時で亡くなった人の話や,若くして亡くなった人の話など,さまざまな人生が残されていたのです。

 ちょいとブレイク

江戸中期以降の高隈山系の開墾

・ 江戸時代の中期ごろまでは,高隈山系一帯の台地沿いは,未開の原野として残されていました。しかし,江戸中期になると,麓の郷士たちを中心にこうした土地を「抱地(かけち)」として開墾する動きが始まります。年貢を取りやすい肝属平野の水田地帯は,藩が直轄地として開発・管理していたため,郷士たちは,豊富な水を利用できる高隈山系沿いの台地や山際に目を向け,そこを新たな耕地として開墾していったのでしょう。
・ 当時のこうした動きは,藩内でも麓集落を離れて山間部に居住し,開墾した土地を耕して生活の糧とした郷士たちの歴史が各地に見られます。高隈山系に住む人たちにも,こうした山際の土地を切り開き,新たな耕地を生み出していった開田の歴史があったのだと思います。
 しかし,そこは平坦で肥沃な土地ばかりではありません。シラス台地が広がる土地も多く,農地として利用するには決して恵まれた環境とはいえませんでした。それでも,暮らしを支える土地を求めて,平地だけでなく山際や山林にまで分け入り,木々を伐り,土地を切り開いていったのです。現在のような機械もない時代ですから,鍬や鎌などを使いながら,一つ一つ土地を開いていく作業は,まさに想像を絶する重労働だったのではないでしょうか。
・ 高隈山系沿いに残る用水路や集落や耕地の風景を眺めていると,そこには単に自然にできた農村ではなく,江戸時代の人々が長い年月をかけて土地と向き合い,少しずつ暮らしの場を築いてきた歴史が刻まれているように思えます。
・ 江戸時代を通して,武士の多かった薩摩藩の財政はかなりひっ迫していました。特に地方の郷士(麓侍)の中には,藩から十分な扶持を受けることができず,農業を主な生計手段として暮らしていました。また,生活に困窮した城下士が「中宿制度」を利用して地方の山間部へ一時期移り住み,そこで田畑を耕作しながら生計を立てていた例も少なくありません。こうして見ると,薩摩藩の城下士といっても,必ずしも城下町で俸禄だけで生活していたわけではなく,農業に従事しながら暮らす武士もかなりいたことが分かります。高隈山系の台地にもこうした集落が多かったのです。
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