これは私が小学校の下学年のときの話です。父が小さな薩摩鶏のつがいをもらってきました。世話係は私で,二羽ともすごく可愛くて私たち兄弟にはよく懐いてくれたので,学校から帰るのが楽しみでした。「トーイ,トイトイトイ」と呼ぶと,遠くから二羽が走ってくるのです。
父が床下にネットを張り,扉も付けて小さな小屋を作ってくれました。これは夜,イタチなどに襲われる恐れがあったためです。朝になると扉を開け,夕方まで放し飼いにしていました。
兄弟で名前を決めたことは覚えていますが,名前までは思い出せません。仮に雌を「とり子」,雄を「とり雄」とします。兄が「とり子」と呼ぶと,「とり子」が来て,「とり雄」と呼ぶと「とり雄」が走ってきます。私が別々に呼んでも両方が走ってくるので悔しかったことを覚えています。
やがて,雄の「とり雄」は大きくなり,呼ぶと遠くから飛んでくるようになりました。距離も徐々に長くなり,高い木の枝に止まれるようになりました。当時,私の家の周りは小さな山で囲まれていて,呼ぶと近くの山の中から飛んできました。
しかし「とり子」が卵を抱くようになると,「とり雄」は呼んでもあまり飛んでこなくなりました。そして,数匹のひなが生まれました。可愛いひよこでした。私が触っても「とり子」は黙って見ていましたが,「とり雄」が気づくとひよことの間に入り込み,立ちふさがるようになりました。
そして事件が起こりました。どうしてもひよこを触りたい私は,「とり雄」をホウキで追い払って,ひよこを両手で持って頬でスリスリしたのです。(とり雄からは,ひよこを食べているように見えたのかも…)すると「とり雄」が私めがけて飛んできて,足のケンで強く叩かれました。さらに執拗に攻撃し,顔を突いてきました。最後に飛びかかってきた時,私は倒れこみ頭を地面に打ちつけて気絶してしまいました。気がついた時は家の布団の中でした。
母が私の叫ぶ声に気づき助けようとしたそうですが,母も何か所も頭を突かれながら,やっとのことで私を家の中まで負ぶって逃げたそうです。夕方,父が帰ってきて私たちの怪我の様子を見て一部始終を聞くと,直ぐにニワトリ小屋に行きました。ニワトリの叫ぶ鳴き声が聞こえてきました。「とり雄」を潰したのです。その晩の夕食の鍋に「とり雄」が入っていました…。私たち兄弟は声が出ませんでした。それ以来,鶏肉は食べられなくなりました。
当時の学校給食で食べ残しは許されませんでした。鶏肉が出てきた時は,給食係の友人に鶏肉を除去してもらったり,食べたふりをしてポケットに入れ校舎の裏に捨てたりしていました。この頃の先生方は皆,戦時下の食糧難(栄養失調による疾病)を生き抜いてきた人たちです。食べ残すことはあり得ないことだったようです。
学生時代になり,鶏肉が食べられないことを知っていた友人たちが面白がってケンタッキーに連れて行き,そこで何年かぶりに鶏肉を食べることができました。フライドチキンはようやく克服できましたが,鶏肉が完全に食べられるようになったのは教員になってからでした。
※ 薩摩鶏は,闘鶏用や鑑賞用として飼育されています。かつて鹿児島ではその激しい気性から軍事などの精神を養うために,鋭利な両刃の剣を蹴爪に付けて闘う闘鶏に用いられていたそうです。田舎では焼酎や(?)を懸けて闘鶏をやっていました…知らんけど。
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