廃校になった松原小学校

 南九州市立松原小学校は,2021年に南九州市立別府小学校へ統合され,120年の歴史に幕を閉じました。「松原」という校名から海岸近くを想像するかもしれませんが,これは集落名の永集落と耳集落から一字ずつ取って付けられました。当時は地元意識も強く全国的に学校名を付ける際によくあったエピソードです。

・昭和46年度の航空写真,プール・体育館・東新館(現5・6年教室)がまだ無く,講堂(昭和38年講堂落成)・住宅・中校舎がある。体育倉庫辺りが築山になっている。

 明治6年に松永の寺子屋からスタートし,明治13年に別府小学校の前身である水成川小学校に合併されました。後に別府小学校に高等科が設置され,校舎が手狭になったため,明治34年に松原小学校として分離独立し,それから120年の歴史を誇っていました。

松原尋常小学校

 松原尋常小学校は,明治34年5月1日から二名の教員によって学校教育が始まりました。同年6月,別府小学校の主任訓導であった田代榮二が初代校長として着任し,明治35年4月から義務教育6年制を実施しました。耳原集落の殿之墓共同納骨堂前の新校舎が完成するまでの約1年間,福元氏宅地の一部に仮校舎を建てて授業を行っていました。戦前生まれでこの頃のことを知っている人々は,松原小学校を「耳原学校(みんばいがっこう)」と親しみを込めて呼んでいました。

・大正期撮影(頴娃村史)

松原国民学校

 大正11年3月,現在の中学校にあたる高等科2年を併置し,松原尋常高等小学校と改称しました。昭和16年4月,国民学校令により松原国民学校と改称し,初等科6年「義務教育」と高等科2年を併設していました。

松原尋常高等小学校(昭和4年撮影)枕崎台風までの44年間使用した。

 昭和20年7月15日の太平洋戦争終戦直前,校地付近の上空で空中戦や空襲があったとされていますが,校舎は無事でした。しかし,終戦の昭和20年9月には枕崎台風により校舎が半壊し,復旧が困難でした。このため,午前中は尋常科の授業を行い,午後からは高等科の授業を行うなど,分散授業を実施していたそうです。

耳原校舎のスケッチ

・国民学校時代

※松原尋常高等小学校(松原国民学校)の昭和16年当時の耳原校舎のスケッチ 提供:鶴田氏絵

※ 耳原の校舎・校庭の平面図です。昭和7年度の初等科は職員6名,児童数は,1・2年58名,3・4年55名,5・6年51名の164名の複式学級でした。高等科1・2年46名を合わせて210名でした。

佐世保海軍通信分遣隊の跡地(松原小学校跡地)

 松原小学校は南薩台地の中央に位置し,東シナ海を一望できる場所にありました。昭和15年頃から終戦まで,佐世保海軍通信分遣隊(無線基地)が設置されていました。東シナ海に面した南薩台地は本土最南端の地で,戦時中には多くの軍事関連施設や設備が存在しました。知覧飛行場は特攻基地として有名ですが,青戸の飛行場や松原小学校の海軍通信分遣隊跡地はあまり知られていません。

 軍の暗号では「ちのひ・まのひ」と呼ばれていました。陸軍の知覧飛行場は「ちのひ」といい,現枕崎空港近くに枕崎飛行場(まのひ)が建設予定でしたが,海に近すぎるため急遽青戸に変更されました。

 当時,松原小学校の地は海軍の佐世保分遣隊跡地があった所で,海軍の南九州無線基地として,敵無線の傍受や味方機の誘導,連絡などの任務に当たっていました。直径10~15センチで高さ20メートル級の鉄柱が約10本,司令部の丘の付近に立っており,南九州一円をカバーしていました。校庭側の学校山は発電施設で,プール横のレンガ倉庫は油倉庫があった所です。

・ 学校山(発電施設跡)

・発電施設内部(タイムカプセル)

・ レンガ倉庫(油庫) 

 松原小学校は,昭和15~16年頃から終戦まで,耳原集落内にありましたが、昭和20年9月17日の枕崎台風で校舎が倒壊しました。そのため,午前中は初等科の授業を行い,午後からは高等科の授業を行っていました。戦後の昭和22年10月,海軍無線基地の跡地が空いたため,松原小学校はそこに移転しました。(100周年記念誌より)

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