観音ヶ池市民の森と冠嶽

・観音ヶ池市民の森
先日,県内の桜の名所をあちこち巡ってきました。桜の時期はどうしても忙しく動き回ってしまいます。春のかすんだ空を「春霞」と表現しますが,最近は目がかすんだり,くしゃみがでたりと花粉や黄砂,PM2.5などの影響なのでしょうか。太陽を直視できるほど空が白くかすんでしまう日がありました。白い空に桜の白い花は,映えませんでした。翌日の天気が荒れる予報がでていたので,急ぎ冠嶽園や観音ヶ池市民の森を訪れてみたところ,桜は見事に満開で大変満足しました。
桜はふだんは下から見上げることが多いのですが,全体を山肌と共に上から眺めると空の白くかすんだ色とは関係なく,かなり趣がある景色で長い時間見続けました。観音ヶ池市民の森の桜はちょうど満開で,見渡すかぎりやわらかな色に包まれていました。上からこんなふうに桜を一望できる場所は,県内でも数少ない桜の名所ではないかと思います。
この日は,ひらひらと舞う桜吹雪も見られ,今シーズンの桜も見納めのようでした。今年は天気にあまり恵まれなくて,思うようにあちこち回れなかったのが少し残念でした。やっぱり桜は,青空にすっと溶け込む感じがいちばん好きです。

冠嶽神社の近くの公園や中国庭園では,桜だけでなくモミジも美しく,落ち着いた雰囲気の中でゆっくりと春を味わうことができました。冠嶽は,いちき串木野市と薩摩川内市にまたがる山で,「秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老不死の薬を求めて訪れ」,その美しさに冠を捧げたという伝説が名前の由来だそうです。西岳(516m)と中岳(496m)は登ったのですが,東岳(486m)と一周の縦走登山はまだ経験がありませんので,ぜひチャレンジしてみたいと思います。
モミジの思い出
子どもの頃,祖父の家の庭に,一本のモミジの木がありました。冬になると葉を落として,むき出しになった枝はどこか力強くて,子どもだった私にも力強い印象が残っています。春先になると淡い緑の葉が芽吹いて木が新しい命を宿しているような,そんな息づかいを感じたものです。
それがいつの頃からか,気がつくと紅葉といえば秋の姿ばかりを追い求めるようになっていました。そんな思いもあったからか,自宅を新築するときには庭に紅葉を植えたいと自然に思うようになりました。広い庭ではないので小さな紅葉を一本植えたのですが,秋になるとその木もちゃんと色づいて,ふと祖父の庭で見上げていた紅葉のことを思い出させてくれます。自宅で見て楽しむとやはり青い紅葉が落ち着くように感じます。

花川砂防公園の緑
冠嶽の花川砂防公園は,近くの温泉によく行くので,花見の季節になるとこの公園に毎年足を運びます。公園で桜を見たあと,冠嶽神社の境内に入ると,モミジの木々が青々と葉を茂らせていて,あたり一面が春の息吹に包まれているようでした。空気はひんやりとしていましたが,どこかやわらかく,歩いているだけで気持ちがすっと整っていきます。

・花川砂防公園のモミジ
新緑の青とは
| この時期の新緑に触れると,かつて初夏に京都を旅したときのことを思い出します。下鴨神社や東福寺,建仁寺,北野天満宮といった神社仏閣に,青モミジがよく映え,とても美しく写真を何枚も撮りました。青紅葉は清涼感をたたえ,あたり一面に爽やかな緑の世界を広げていました。歴史ある社寺や庭園がその若葉に彩られる景色は,まさに京都ならではの風情だと感じたものです。 古い日本語では,「青」という言葉が緑を含む若くみずみずしい様子を表していたそうです。芽吹いた草木が一斉に広がる新緑の青モミジには,生命の息吹と力強さが感じられ,季節の移ろいの美しさを見ることができます。 |
砂防ダムは,冠嶽のごつごつした山肌によくなじんでいて,人工物という感じがせず,風景の一部として,溶け込み彩りを添えていました。そんな清々しい景色の中をゆっくりと歩きながら,移りゆく季節を,体いっぱい味わってきました。
三国名勝図会の中の「冠嶽」
江戸期の「三国名勝図会」に冠嶽が紹介されています。
| 「此嶽は,日置薩摩の両郡に連り,其層巒疊嶂東は入来邑西北は當邑に蟠りて,當邑の内,靑峰特に秀抜して三嶽の名を分つ…」 ・ 現代語訳:この山は,日置郡と薩摩郡の二つの郡にまたがって連なっていて,その幾重にも重なった山並みは,東は入来の村にまで,西北はこの村のあたりまで伸びている。この村の中では,とくに青々とした峰がひときわ抜きん出て「三嶽」という名があります。 ~中略~ 「西嶽の形,風折烏帽子に似たり,故に冠嶽と稱ず隈之城沸生橋の道路及び市來薩摩渡瀬橋の堤より是を望に,特に冠の状をなすといふ,又一説に孝元帝の御宇,秦の徐福来て玉冠を留めし故,冠嶽と稱ずと」 ・ 現代語訳:西の峰の形が,風にあおられて折れ曲がった烏帽子に似ているので「冠嶽」と呼び,隈之城の沸生橋の道や,市来の薩摩渡瀬橋の堤からこの山を眺めると,とくに冠の形をしているのがよく分かるという。また別の説では,孝元天皇(紀元前200年前後の神話の時代)の御代に,秦の徐福が来てこの地に玉で作った冠を残したので,冠嶽と呼ぶようになったと記されています。 |
これによると,冠に似た山岳名がその名の由来のようです。現代では,冠や烏帽子は神職が祭典の際に着用する姿しか見ることは少なくなりましたが,こうした装いは,古くからの儀礼や伝統を今に伝えるものです。 中でも風折烏帽子は,烏帽子の頂(峰)が左右に折れた独特の形をしていて,その姿は確かに冠嶽の西嶽に似ています。

・風折烏帽子に似た西嶽
蓬莱思想とは

古代中国の神仙思想では,蓬莱とは「東の海のかなたにある神聖な山」で,仙人が住み,不老不死の薬がある理想郷と考えられていました。もともとは中国の神話に描かれた「海上の仙境」であり,日本や韓国を指すものではないのです。

しかし,このイメージは学僧たちによって日本にも伝わり,日本風に変わっていきました。庭園や文様にも取り入れられ,日本独自の蓬莱思想が生まれました。
もっとも,中国の記録には「徐福が蓬莱山を探して日本(熊野等)に来たという伝承」はないのですが,日本各地には徐福伝承が数多く残っています。
仙人岩
案内板によると,阿子丸仙人が,岩上で苦行を積み,ついに仙人の域に達したので仙人岩と呼ばれるようになったそうです。そのとき岩の水で墨をすったので「硯の水」と言われ,雨の日も日照りの日も水の増減がない霊水で,この水で書を書くと上手くなると伝えられ,この水を汲み帰ったそうです。1479年,冠嶽を訪れた桂庵禅師は,冠嶽の景色や徐福伝説,硯の水のことを漢詩で詠んでいるようです。

・仙人岩
桂庵禅師
桂庵は中国(明)に渡り,朱子学を修めて帰国いたしました。当時の京都は応仁の乱の影響により荒廃しており,学問活動を思うように展開することができませんでした。そこで桂庵は,薩摩の島津忠昌に招かれて南九州へ下り,朱子学の講義に力を注ぐこととなります。多くの優れた弟子を育成し,薩南学派(薩摩の朱子学の祖・漢文の祖)と言われるまでになりました。当時の薩摩は,全国に先駆けて朱子学を学問の中心に据え子弟教育に力を注ぎ,その後の島津氏の思想的基盤に大きな影響を与えることとなりました。
また,冠嶽へ立ち寄ったことも,島津藩主の強い要請によるものと考えられています。この頃は本家と分家の対立も激しく,島津家の内部も必ずしも一枚岩とは言えない状況だったようです。そうした中で,当主としての正当性を示す必要があり,歴代当主が崇敬してきたこの山岳信仰の意義を改めて強調したかったのではないでしょうか。そこで,中国留学から帰ったばかりの名高い桂庵のお墨付きを得ようとした思惑があったのかもしれません。

・三国名勝図会
公園内の桂庵禅師の碑文「原文と訳」
この漢詩は島陰漁唱にも掲載され,碑文は花川砂防公園と冠嶽神社の間にあります。

| 原 文 | 現 代 語 訳 |
| ① 徐福曽従海外来 初知日域是蓬莱 | ・徐福は海の彼方からやって来て,初めてこの地が仙人の住む蓬莱(理想郷)であると知った。 |
| ② 仙園花木春常有 祝得邦君萬壽盃 | ・この仙境の庭では花や木々がいつも春のように美しく,国の君主(藩主)の長寿を祝う盃が捧げられる。 |
| ③ 仙楽花飛絃管楼 満莚佳士喜清遊 | ・仙人の音楽が流れ,花びらが舞う楼閣には琴や笛の音が響き,宴席には立派な人々が満ち,清らかな遊びを楽しんでいる。 |
| ④ 主人有徳境彌顕 一岳高擎冠九州 | ・主人に徳があるので,この地のすばらしさはいよいよ際立ち,一つの高い山がそびえ立って,九州の中でもひときわ抜きん出ている。 |
| ⑤ 従一神人未脱冠 仙山景象繞天壇 | ・まるで神人に従うかのように,その威厳は失われることなく,仙人の山の景色は天の祭壇をめぐるように広がっている。 |
| ⑥ 層巌萬丈絶嶺水 雨不添深旱不乾 | ・幾重にも重なる険しい岩山は万丈の高さにそびえ,その峰の清水は,雨でも増えすぎず,日照りでも枯れることがない。「この硯の水で書くと上手くなる」 |
