夏休みの友問題~日教組との対立について

日教組の活動について

 戦後は新憲法によって労働者の権利が認められ,公務員にもストライキ権が保障されました。激しいインフレの中で,公務員の労働組合は生活補給金を求めてストを行い,賃上げを勝ち取っていきます。ただ,その動きの高まりに危機感を持ったGHQは,昭和23年に公務員の「争議権」と「団体協約締結権」を罰則付きで禁止しました。

 その後もストは続きますが,処分者が出るような強硬路線は次第に見直され,1970年代にはスト中心の活動は行き詰まっていきます。私が中学・高校生のころは,先生が「座込みスト」に参加するたびに休みになり,授業が自習になることもよくありました。中には,担任が県教委での座り込みに参加していて大学入試の内申書を作成してもらえず,受験の申し込みができなかった友人もいました。その日の夜,「今日,お前の担任が県教委の廊下に座っていたぞ」と,彼の父親が県教委に勤めていたことで発覚したそうです。

 父の話では,昭和50年代後半以降は過激な組合活動はかなり減っていったとのことです。そしてその頃から平成初頭にかけて,労働戦線の再編や日教組内部の路線転換が進んでいきます。平成に入ると,文部省との対立よりも協調を重視する方向へ,徐々にシフトしていったようです。この時期,鹿児島県での最後の大規模な闘争がいわゆる「夏休みの友問題」でしたが,それ以降は職場内で苦痛に感じるような組合活動はほとんどなくなりました。

 私が教職に就く頃には,組合内部でも強硬派の離合集散が進み,活動はかなり穏やかになっていました。いわゆる日教組と文部省の「和解の時代」に入っていきますが,一部には依然として強硬な活動家の勢力も残っていました。ちょうどその頃の話です。

政治闘争・教育闘争

 戦後,日教組はGHQの関与のもとで,教員の「待遇改善」などに取り組んでいました。ただ,朝鮮戦争以降は平和運動への関与を強め,次第に「政治闘争・教育闘争」としての性格が色濃くなっていきます。選挙でも保守政党に対抗する形で,野党や社会党系候補の支援に傾斜し,組合員を基盤に後援会づくりや「電話かけ」「ビラ配布」「集会動員」といった,典型的な労組型の選挙活動を展開していました。
 選挙活動については,教職員組合は,職場単位での組織的な投票行動を強みとしていましたが,組合員数の減少とともに,「確実に動かせる票」も次第に縮小していきます。文部科学省の統計によると,昭和から平成に移る時期のわずか1〜2年で,組織率が約10%も急減しました。さらに,公務員の争議行為」を違法とする最高裁判例の流れが定着したことや,「政治色の強い運動」への距離感もあり,本県でも若い教員を中心に組合に加入しない動きが広がっていきました。
 こうした変化に呼応するように,自民党系議員による巻き返しも強まり,文部省や都道府県教育委員会への影響力が高まっていきます。その象徴的な事例の一つが,「夏休みの友」をめぐる問題です。この教材が組合活動費に充てられているとの指摘を受け,各都道府県の教育委員会が扱いを見直した結果,長年使われてきた課題集が学校現場から姿を消すことになったのです。
 そのきっかけをつくったのが,前回投稿した「国会議員のN氏」でした。そしてこの問題を契機に,県内の組合所属教員(当時の組織率は50%以上)が結束を強めていったようです。私自身も,当時の職員室でその「恨みつらみ」がごく普通に語られていたのを記憶しています。

夏休みの友問題で対立が再燃

 私が小学生の頃,夏休みや冬休みになると,担任の先生から「夏休みの友」や「冬休みの友」が配られていました。ほかにも日記帳や漢字練習,読書感想文,図画工作,それに昆虫や貝殻の採集,理科の観察記録など,とにかく宿題が多かった記憶があります。中でも「夏休みの友」は時間のかかる課題が多く,子ども心には“休みの邪魔”のような存在でした。

 ところが後になって,この「友」が組合の資金源になっているのではないかという指摘が国会で出されたそうです。その影響もあって,昭和50年代後半に入ると鹿児島県教育委員会も方針を転換し,子ども一人一人に応じた課題を出す方向へと変わっていきました。

 私が教員になった頃には,「夏休みの友」を使っているのは組合の先生に限られるようになっていて,しかも校長が指導したうえで,採用者の名簿を教育委員会に報告するような状況でした。

 そうした中で,教員になった私にとっては,「夏休みの友」は別の意味で“友ではなく敵”のような存在でした。というのも,児童一人一人に合わせた課題帳を自分で用意しなければならなくなったからです。校長からは,学級の児童数分の別々の個別課題帳を作るように言われ,大変な目に合いました。

 そこで私は,主要4教科について難易度を3段階に分け,子どもたちの学習状況に応じて組み合わせる方法を取りました。ただ,それでも課題作りから印刷,振り分け,製本まで手間は大きく,負担はかなりのものでした。一方で,先輩の先生方は,数枚のプリントを全員に配り,「夏休みの友」も併用するというやり方を続けていました。

 1年目の経験を踏まえて,2年目からは日々の授業で使っていたプリントを計画的に貯めておき,それを夏休み用の課題帳として再利用するようにしました。この方法にしてからは,かなり効率よくなりました。振り返ってみると,「夏休みの友」の扱いの変更は,教育の個別化という理念と,教員の負担との間で揺れていた時代だったように思います。

教職員の選挙活動

 戦後,子どもたちの長期休業中の宿題として生まれたのが「夏休みの友」だそうです。もともとは①地区ごとに代表の先生が作成していましたが,その後,②教育委員会と教職員組合が共同で編集する時期を経て,やがて都道府県単位の③教職員組合が中心となって制作するようになりました。こうして県内の多くの学校で使われる,長期休業中の定番宿題冊子になっていきました。

 ところが「夏休みの友問題」をきっかけに状況は大きく変わります。学校として一律に採用することが難しくなり,希望者が個別に購入する形へと移行しました。

 当時は各種制度の変更や法令の判例等により教職員の職務専念義務等の違法性が指摘されると,抗議集会やストライキなどは殆どなくなっていました。しかしこの問題を契機に,いったん下火になっていた組合活動が,県内の組合所属教員(組織率は50%以上)が再び結束を強めていったのです。当時の職員室でその「恨みつらみ」がごく普通に語られていたのを覚えています。そのため,「あのNが悪い」「次の選挙で落とす」といった過激な発言も聞かれ,組合側との軋轢が生じていました。

 当選確実の誤報へと

 具体的には,投票所の出口調査であえて「N議員に投票した」と答え,「中間発表で期待を持たせてから奈落に突き落とそう」といった話までありました。実際,組織率の高さもあってか,選挙特番では一時「当選確実」と報じられた後,突然「落選」へと報道が変わったのです。ただし,そのような要因が重なったこともあったのでしょうが,こうした思惑がそのまま結果に影響したとは考えにくいとも感じています。「当選確実」の誤報があった事実については,本来であれば丁寧に検証されるべき問題だと思います。しかし当時は,その点に関してはほとんど触れられることがありませんでした。私にとって選挙結果がショックだったこともあり,翌日以降テレビや新聞の報道を注意深く確認していましたが,誤報に関する十分な説明や検証は見当たりませんでした。

 なお,今回このN議員についてインターネットで調べてみましたが,「当選確実の誤報」に関する情報は確認できませんでした。マスコミは他者には厳しく追及する一方で,自らの誤りについての検証や検証結果の共有が十分とは言えないのではないか,という印象も持ちました。

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