分会(組合)と交渉(話合い)

管理職として組合対応について 

 前々回の続きです。教員になる前,「公務員」は刑事ドラマみたいに,警察署長の話を刑事たちが背筋を伸ばして静かに聞いているそんなイメージを持っていました

 ところが初任校では,新採1〜2年目以外はみな組合員。職員朝会や会議では,管理職に対して怒号を浴びせることもあり,教育公務員に対するイメージが大きく崩れたのを覚えています。

 管理職になり学校現場での組合対応の在り方が問われることが多かったのですが,その一つが分会交渉についてです。本来学校の分会は法的に校長と交渉する立場にありません。(法的に交渉が認められているのは県教職員組合と県教育委員会だけで下部組織はそれに準じているにすぎません)

「職員団体」とは,職員が勤務条件の維持・改善を目的として組織する団体のことで,学校内では「分会」と呼ばれていました。

 地公法第52条では,「職員団体」とは,公務員が勤務条件の維持・改善を目的として組織する団体とされています。いわば公務員の労働組合ですが,民間の労組とは違って団体協約を結ぶ権利や争議権(スト権)は認められていません。その代わり,人事院や人事委員会などによる救済制度が設けられています。

 なお,警察職員・消防職員などは組合への加入すら認められていません。たしかに,火事が起きている最中に隊員がスト中では洒落になりませんよね。地方公務員の中で,その次に法的な制限が厳しいのが教員です。

・公務員の労働基本権

区 分組合加入交渉権争議権
①警察・消防職員 ✖ ✖ 争議行為は,地公法・国公法で禁止されている。
②教職員 〇△(学校分会一部制限)
③県庁・市役所職員 〇△(交渉権〇一部制限)
④国家公務員 〇△(交渉権〇一部制限)

他県の組合との違い

 一言でいえば,組合の力は組織率だけでは測れないようです。私が教頭として組合対応に悩んでいた頃,大分県の県立高校に勤務していた友人から,大分県の実情を聞いたことがありました。

 同じ九州でも,大分県教職員組合は鹿児島の教職員組合とは少し事情が違っていたようです。当時の大分県の組合組織率は9割を超えていたそうですが,聞いた範囲では,鹿児島のような過激さはあまりないようでした。

 むしろ大分では,「学校の管理職を目指すなら組合経験がないと出世しにくい」とまで言っていたのです。「組合という組織の中で人心をまとめられない人間に,学校組織のマネジメントは務まらない」という考え方を話してくれました。その話を聞きながら,私は「鹿児島の教育行政の考え方とはずいぶん違うものだな」と驚いたことを覚えています。

組合員の主張

 教頭時代,全国の日教組全体の組織率は30%前後だったと思いますが,私が勤務してきた学校では,それをさらに下回っていました。ところが興味深かったのは,「組合に加入していない年配の職員」でも,組合員とよく似た発言をする人が少なくなく,時には非組のベテランの方が過激とも映ったのです。若い職員からは,「組合費も払っていないのに,どうしてあんなことを言うんですかね」といった声を聞くこともありました。

 しかし私は,そうした「納得できないことには抗う空気」そのものが,薩摩に昔から根付いている気質なのかもしれないと感じていました。もっとも,当の管理職側には,自分たちが“権力”だという感覚はほとんどありません。世間的にはごく当たり前と思えることを普通に提案しているだけなのに,なかなか理解してもらえない…。そんな場面を,私は何度も経験しました。 

明治期の教育制度と鹿児島

 維新の三大改革と言えば「学制」「徴兵令」「地租改正」の3つを指すそうです。かつての藩統治の江戸時代のすぐ後に徴税や軍事支配などは反乱を招く恐れから至難の業だったと思います。まず廃藩置県を行い,国内の政治基盤を固めてから三つの改革を行いました。

 幕末の禁門の変(1864年)から1945年の終戦まで,薩摩・鹿児島の人たちは81年間で8回もの戦争に関わっています。①禁門の変・②戊辰,③西南,④日清・⑤日露,⑥第一次世界大戦,⑦満州事変,⑧第二次世界大戦まで,およそ10年に一回のペースで戦争を経験してきた計算になります。

 また,政権中枢にいた鹿児島官僚は,文部行政においても,文部卿時代の西郷従道や寺島宗則をはじめ初代文部大臣の森有礼,大山巌,樺山資紀など文部行政に多くの薩摩出身の官僚を輩出しました。明治5年の学制を発布以来,小学教則,中学教則を領布,明治7年の小学教員の教員免許状制度など教育の大きな変革に着手して現在の原型を作ってきました。ここまで一気に大改革ができたのも西郷たち薩摩藩士が武力で睨みをきかせていたからだったのでしょう。

「私学校」の精神的な伝統

 一方で,当時の鹿児島県の組合には,単純に組織率だけでは語れない“組織力・団結力”のような結束があるように感じます。では,何がそうさせているのか…。私がとっさに思い浮かべたのは,鹿児島特有の歴史的な背景でした。

 鹿児島には,明治維新以降も,政府側についた組織と西郷隆盛を支持した勢力との確執が,長く地域社会に残っていました。地方の組織にも,どこか「中央権力に対して一定の距離を置く」ような気風があったのではないかとすら思えるのです。

 その根底には,西郷隆盛が下野した後に設立した私学校」の精神的な伝統があるように思えるのです。そして,西南戦争の引き金にもなった「私学校」の空気が,師範学校の流れをくむ鹿児島大学出身の教職員組合にも,どこか受け継がれているように感じていました。

 明治6年,征韓論争に敗れた西郷隆盛が新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると,大山県令は私学校の設立などを支援し,西郷を支えました。当時の鹿児島県は,新政府に租税を納めない一方で,私学校党の人材を県の官吏として積極的に登用し,まるで独立国家のような様相を呈していたと言われています。

 大山の意向もあり,県内の各市町村の行政や警察,教育,民間組織などの多くを私学校派が占めるようになっていきました。

 前回投稿したように,昭和期の鹿児島県教職員組合は,全国でも屈指の強い組織力を持っていたと言われた時期がありました。単なる組織率の高さだけではなく,そこには独特の結束力があったように思います。

 私はその姿に,維新へ突き進んだ薩摩の「誠忠組」に通じるものを感じています。そして,私学校の精神は,その後の師範学校教育にも少なからず受け継がれていったのではないでしょうか。

私学校の網領

 (私学校) 私学校設立に当たって,西郷が自ら筆を取って二箇条の綱領を書いています。

一 道を同じくし,志をともにする者たちは,表立ってではなくとも心の中で結びついている。だから,この道理をさらに深く研究し,道義のためには自分の身を顧みず,必ず実践しなければならない
一 天皇を敬い(尊王),民を慈しむことは学問の根本精神である。したがって,この道理を十分に理解し,人民としての義務にあたっては,どのような困難にも立ち向かい,「一統の義」(国家全体の大義)を打ち立てなければならない。

「逆族」の汚名

 西南戦争で「逆賊」の汚名を着せられた西郷軍でしたが,その後も鹿児島には,大久保利通らの明治政府に反発する空気が根強く残りました。そして,その思想は私学校の精神的な流れをくむ師範学校や第七高等学校造士館などに受け継がれていったように思います。

 その後,西郷の影響を受けた私学校出身者たちが,県内各地で区長や戸長などの要職を担い,地域社会を強く主導していきました。そのため,鹿児島県全体が一種の「西郷派」のような一体感を持っていたとも言われます。県内各地には私学校の分校も設置され,その根底にはやはり「私学校の精神」が流れていたのでしょう。

 私は,この構図を見ていると,後年の鹿児島の教職員組合にもどこか通じるものがあるように感じます。鹿児島の組合は全国でも屈指の組織力を持ち,この時期には他県ではあまり見られないほど激しい闘争を繰り返していました。とくに,時代が下るにつれて展開された管理職試験反対闘争主任制度反対闘争は,全国的に見てもかなり特徴的な動きだったと思います。

 私は,鹿児島の教職員組合の強い結束力や,一気に突き進む気質に,維新期の「精忠組」や「私学校の精神」と通じるものを感じます。単なる労働運動ではなく,反体制的な立場を支える精神的な土台のようなものが背景にあったのではないか,そんな気がするのです。

GHQの方針

 戦後21年,アメリカ教育使節団は「教師の最善の能力は,自由な空気の中でこそ十分に発揮される。この空気をつくることが行政官の役割であり,その反対であってはならない」として,教育の自由を尊重する立場を示し,それまでの学校経営の根本的な改革を求めました。

 さらに,そのためには「教師自身が民主主義の資質を身につける必要があるとし,学校運営を校長や一部の職員だけで進めるのではなく,全教職員が参加し,自由に意見を出し合い,議論を重ねたうえで決定すること,そして共同の決定に基づいてそれぞれが責任を果たす」ことを重視する考えを示しました。

 こうして,全教職員の参加による自治的な学校運営が奨励されるようになったのです。戦後のこの考え方が教職員組合の大きな活動方針になり,長く職員会議をはじめ「学校運営が揉める」ようになったのです。

 2000年(平成12年)の学校教育法施行規則48条の改正で,職員会議が校長の諮問機関になったことで,教員の自主性が尊重されなくなり,校長による強引な校務運営が始まったと組合側は言っています。ただ,実際には『校務をつかさどり所属職員を監督する(学教法第28条)』という権限も,教育課程の編成など限られた部分が中心で,あとは殆ど法令に沿って職務を進めているだけだと思います。中には,条例違反になりかねないことを主張されたこともありましたし,いくら丁寧に説明しても,受け入れてもらえなかった経験もありました。

交渉権

 地方公務員法第55条では,登録を受けた職員団体(県教職員組合)に対して,給与や勤務条件などについて「交渉」に応じることが定められています。ただし,団体協約のような契約を結ぶことは認められていません。学校現場の「分会」は法的に登録された職員団体ではなく,県教職員組合と県教委の関係を,学校レベルで準用している形です。そのため,学校での分会交渉は,実際には職場内の「話し合い」に近いものでした。

 組合側は「交渉には合意と責任が伴う」と主張しますが,校長には多くの事項について当事者能力(最終決定権)がなく,扱える内容も勤務時間の割振りや一部の勤務条件に限られます。そもそも登録団体である県教職員組合ですら団体協約を結べないため,学校現場で分会と校長が協約のようなものを交わそうとするのは,制度上かなり無理があると感じていました。しかし分会側は要望書を渡そうとしますので,受け取ることはある部分認めたと捉えられるので受け取ることはしていませんでした。

 私は,毎年4月に「分会との話し合い」をしていましたが,要望書は内容を確認したらその場で返すようにしていました。わざと置いて帰ろうとすることもありましたが,必ず分会長に返していました。

交渉のエピソード(1)

 教頭2校目のときのことです。おなじ歳の分会長だったこともあり,「先生たちの思いもあるでしょうし,先生と二人でよく話しましょう。ただ,できないことはできないと言いますよ」と伝え,幾度となく話し合いを重ねました。また本人も納得しているように見えていました。

 ところが,一学期最後の職員会議で,彼が突然立ち上がり,すでに話がついていた内容を改めて強く主張し蒸し返してきたのです。会議終了後に「お互い,職場を少しでも良くしようと話し合ってきたよね」と伝えると,彼は「教頭の考えは理解しているが,校長の考えは聞いていないので,分会を代表して主張した」と説明しました。当然わたしも納得できなかったので,さらに話を続ける中で,最後には彼の本音も語ってくれました。組合員は決して安くない会費を払っているため,非組合員と同じでは意味がないという雰囲気があり,「分会長として強く主張しないと,組合を辞める職員が出てしまうから」と,分会長としての立場や苦しさを打ち明けてくれたのです。

交渉のエピソード(2)

 父の親友で組合専従を経て鹿児島県の教職員組合を黎明期から支えてきた先生がいました。父が管理職になってからも友人としての付き合いは続き,お互いの立場を理解していたので,組合活動についてはあえて話題にしないようにしていたそうです。

 その先生は早くに奥さんを病気で亡くし,男手一つで子どもたちを育て上げていました。そのような時のこと,母がお見合い話を持ち掛けました。「もう子どもたちも成人したのだから,再婚してもいいでしょう」と。これまでも何度も母から言われ,断っていたそうですが,その時はお互い再婚同士というや,子どもたちが成人していたこともあり,意外とあっさり話がまとまったそうです。ただ,その相手の方の実家は市内でも有名な大きな商店を営む経営者一族でした。そのため,母は「組合を辞めて管理職になったらどうね」と勧めたそうです。そして先生は結婚と同時に組合を辞め(この時のいざこざも大変だったそうですが…),数年後には教頭,さらに校長へと昇進していきました。

 その先生が話してくれる組合時代のエピソードはとても面白く,同席していた私もつい聞き入っていました。中でも特に印象に残っているのが,校長として初めて赴任した学校での話です。

 初めての分会との話し合い

 4月の慌ただしさが少し落ち着いた頃,第1回目の分会との話し合いがありました。分会長と数人の先生方が挨拶を終えると,いつものように「今年度の組合方針です」と一枚の紙を差し出してきたそうです。もちろん,受け取ること自体が内容を認めることに繋がるため,丁寧に返すつもりでいたそうです。

 ところが,その文書に目を通した瞬間,先生は思わず吹き出しました。どこかで見覚えがある内容だと思っていると,なんとそれは自分が組合専従時代に作成した方針文を,そのまま使ったものでした。組合を辞めてからすでに8年以上経っていたので,てっきり新しい内容に変わっているものと思っていたそうです。

 そして思わず,「私が作ったものを,そのまま私のところへ持ってくるな」と言い放ち,突き返したそうです。驚いた分会長がその日のうちに支部へ確認すると,本当に当時の文書がそのまま使われていたことが分かり,すぐに報告に来たそうです。

 もっとも,その校長先生自身も,かつては強い信念を持って組合活動に取り組んでいた人でした。だからこそ,立場が変わってからも先生方の声によく耳を傾け,対話を大切にしながら学校運営に努めていったそうです

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