山中教育長の教育改革「管理職試験と主任制度」 

教頭のイメージ

 学校の教頭と聞くと,どんなイメージが浮かぶでしょうか。やはり有名なのは,夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する「赤シャツ」で,どこか意地悪で一筋縄ではいかない人物像を思い描く人も多い気がします。実際,「教頭」という役職自体は明治期から存在していたものの,法令上位置づけられたのは昭和32年(1957年)になってからで,また昭和35年には管理職手当も支給されるようになりました。

 現在のように,教頭が独立した管理職として位置づけられるようになったのは,昭和49年(1974年)の文部省事務次官通達以降のことで,意外と新しいことなのです。それ以前は,どちらかといえば教職員の代表のような役割を担っていて,分会長がそのまま就くこともありましたし,校内の推薦で選ばれるケースもあったようです。そのため,学校運営をめぐって校長と意見がぶつかることも少なくなく,時には関係がぎくしゃくしてしまうこともあったようです。今のような「管理職」としての教頭像とは,ずいぶん違っていたのです。

 こうした背景を踏まえて考えると,明治38年ごろを舞台にした『坊ちゃん』に出てくる教頭・赤シャツの人物像も,あながち誇張とばかりは言えない気がしてきます。

 当時の日本は,日露戦争の勝利で高揚感に包まれる一方,講和内容への不満から民衆運動が起こり,それがやがて「大正デモクラシー」へとつながっていく過渡期にありました。そうした社会の世相は,教育現場にも影響を及ぼし,校長絶対といった従来の体制にも揺らぎが見え始めていました。職員室の雰囲気にもどこか民主化の兆しが見え始めていたのかもしれません。

 私の曾祖父も明治末に教頭(主任訓導)を務めていたそうですが,当時の校長との関係がかなり険悪で,周囲が心配するほどだったそうです。そんなエピソードを重ね合わせてみると,『坊ちゃん』に描かれた学校の人間関係も,単なるフィクションというより,当時の空気感をそれなりにリアルに映している部分があるのではないかと思えてきます。

 校長の職務命令が現在のように法令として整備されたのは,戦時中を除けば,戦後のGHQ占領政策の時代以降のようです。憲法制定後に整えられた国家公務員制度(昭和22年)に準じて,昭和25年制定の地方公務員法第32条では,「法令等及び上司の職務上の命令に従う義務」が定められました。

勤務時間中の組合活動について 

 私が教頭時代,自主的な教頭研修会で,公務員訴訟に詳しい弁護士の方を講師に招いたことがありました。各職場での勤務時間中に行われる組合活動への対応に苦慮していたからです。

 そのときの主なテーマが,「職務専念義務」でした。地方公務員法第35条には,「勤務時間中は注意力のすべてを職務の遂行に向け,当該地方公共団体の職務のみに従事しなければならない」と定められています。言葉にすればごく当たり前のことなのですが,現場ではなかなか割り切れない場面も出てきます。

 学校によっては,勤務時間中にもかかわらずビラを配ったり,若手教職員に組合加入を働きかけたりと,行き過ぎた活動が見られることもあったからです。こうした中,教頭として若手職員の悩みや法令との折り合いをどうつけるのか,現場としての難しさを感じていました。 

職務専念義務

 研修会では,いわゆる「赤本」と呼ばれる「鹿児島県教育関係者必携」を中心に解説が進められました。学校関係の法令や条例だけでなく,注解や実例,さらには判例まで丁寧に整理されていて,管理職にとっては重要な法令集です。

 その中でも印象に残ったのが,目黒電報電話局(NTTの前身)の事件に関する裁判例でした。昭和42年,目黒電報電話局で,従業員が「ベトナム侵略反対,米軍立川基地拡張阻止」といった政治的主張を記したプレートを着けたまま勤務し,さらに無許可でビラ配布まで行ったことから,会社が戒告処分とし,争いが裁判にまで発展したというものです。

 最終的には昭和52年12月13日の最高裁判決で一定の結論が示され,その後の組合活動の在り方にも大きな影響を与えました。判例の要点としては,

勤務時間中のプレート着用は職務専念義務に反する。(昭和48年札幌高裁)

職務に向けるべき注意力を欠き,職場の規律や秩序を乱す行為に当たる。

という最高裁の判断が示されました。

 この判例は,労働基準法における「休憩時間の自由利用の原則」と,地方公務員法第35条の「職務専念義務」の両方に関わるものでした。

 つまり,たとえ休憩時間であっても,公務員,とりわけ教育公務員には行動が制限される場面があるということと,教頭の立場として,職務内容をどのように伝え,指導していかなければならないのか,改めて考えさせられました。

教育委員会法(昭和23年)と地教行法(昭和31)

 戦前の中央集権的な教育行政は,戦後,GHQの占領政策のもとで大きく見直されました。その象徴が,昭和23年に制定された「教育委員会法」です。
 この法律では,教育行政を政治的に中立な立場で,住民参加のもとに行う仕組みとして教育委員会制度が整えられました。地方分権や住民参加の強化,政治的中立性の確保が重視され,教育委員の公選制など,当初はかなり民主的で分権的な制度が導入されたのです。アメリカ型の「住民による教育のコントロール」という考え方も広まり,この理念は昭和31年の地教行法への改組後も引き継がれています。 
 一方で,鹿児島県のように離島を多く抱える地域では,教員の転勤は非常に過酷なものとなりました。戦前は,市町村ごとの採用が基本で,転勤も近隣に限られ,比較的穏やかな環境だったといいます。しかし戦後は,県全体で人事を動かす必要が生じ,離島勤務を含む大規模な異動が教員に重くのしかかりました。
 さらに,「鹿児島大学(師範)閥或いは附属小・田上小(鹿大代用附属)閥」と呼ばれる人事の偏りも指摘されるようになります。鹿児島市への転勤や管理職への登用では,出身大学による見えない壁が存在し,「鹿大本流」と「その他の傍系」という言い方までされていた時代もありました。

管理職任用試験と主任制度

 こうした混迷の中で登場したのが,「管理職任用試験」と「主任制度」です。従来のように出身や人脈に左右されがちだった人事から一歩進み,一定の基準で評価しようとする新たな試みでした。地方で実績を積んだ教員にも道を開く制度として期待されましたが,その一方で現場には新たな軋轢や負担も生まれ,賛否が大きく分かれました。

 組合が反対した理由には「管理体制の強化」への警戒もありましたが,背景には転勤への不安もありました。地方で実績を積めば管理職や市内勤務への道が開けるとはいえ,それが新たな競争や不満を生む側面もあったのです。実際,鹿児島市内の学校に入った教員の中には,再び地方に戻ることを強く嫌がる人も少なくなかったのです。

 (当時は鹿児島一極集中の時代)鹿児島市内の学校に入るため,市内転入を目指して近郊校で経験を積み,鹿児島市教委の指導主事を呼び,研究授業を実施していたと,今では考えられないことも見られました。

 またこの頃から,「教職員人事異動の標準」という制度も厳しく意識されるようになりました。離島勤務の有無などが基準に照らして問われ,毎年校長を悩ませる存在だったようです。管理職研修会の九州大会や全国大会などに参加すると,他県では大きな争点にならず,人事異動説明会も校長が簡単に説明する程度で済むそうで,本県の特殊性に驚きました。 父もまた,いわゆる「傍系」とされ,市内の自宅近くの学校で働くことを諦めざるを得なかった一人でした。理想として掲げられた改革も,現場では当然のように反対運動も起こり,制度の改革は簡単には受け入れられなかったのだと思います。

試験会場にて

 父は教頭になる前まで組合員でした。当時勤めていた学校は,地方でも規模の大きい中学校で,県内の組合活動をリードするような存在だったそうです。そんな環境ですから,父が管理職試験を受けることはすぐに周囲に知られ,組合の先生方から「裏切るのか」「考え直してほしい」と,かなり厳しく詰め寄られたといいます。

 もっとも父自身,最初から積極的に管理職を望んでいたわけではなく,校長に強く勧められて挑戦を決めた経緯がありました。それでも校内の圧力は強く,前日には校長から「明日は頑張って正門から正々堂々と入ればいい」と,どこか意味深なことを言われたそうです。

 試験当日の朝,父はその意味を思い知ることになります。会場の正門には何重もの反対デモができていて,少し入ればまた外に追い出されるなど中々前に進めません。ようやく門の前にたどり着くと,そこにいたのは職場の組合の同僚たちでした。このままでは入れないと判断し,父はいったん引き返します。

※鶴丸高校正門を何重にも取り囲み受験を阻止する試験初日の様子(上)  

※会場封鎖を解く機動隊と組合員の様子(下) ~近隣住民から騒音に対して苦情が何件も出たそうです。

 当時鶴丸高校の北側は鉄道官舎の敷地(現在は職員駐車場)でした。立ち寄ってみると,高校の敷地との間に金網がなく,通り抜けができる場所があったのです。父はそこから入り,ようやく会場にたどり着きほっとしていると,警戒していた会場係の職員に呼び止められ受験番号を確認されました。無事に受験はできたものの,結果は不合格でした。

 後に聞いた話では,当時の教育長は「厳しいバリケードをかいくぐってでも受験した者は合格に値する」と話していたそうです。反対に負けず信念を貫ける人物こそ,管理職にふさわしいという考えだったのでしょう。同じ学校から受験し合格した同僚も,面接で「バリケードを抜けたときどういう気持ちだったか」を聞かれたそうです。

 その話を聞いた父は,自分の行動を深く恥じたと言っていました。そして翌年は真剣に試験対策を講じ,誰よりも早く会場へ向かい,正面から試験に臨みました。結果は無事合格。あの経験が,父にとって管理職としての大きな転機になったのだと思います。

山中教育長の教育改革

 父は,「山中教育長は,戦後の鹿児島県の教育を正常化させた恩人だ。定年になったら東京まで会いに行きたい」と,よく言っていました。

 山中教育長が在任していたのは昭和48年から50年までのわずか3年間ですが,この時期は戦後の県教育界の中でも,特に厳しい時代だったと言われています。父が教員になった昭和20年代後半は,組合活動が全盛で,学校ごとにいわゆる「活動家」と呼ばれる人たちが複数いたそうです。

 私が教員になった頃には,組合活動はすでに下火となり,少なくともそうした活動家の姿は見られませんでした。その背景には,それまで曖昧だった法整備が進んだこと,とりわけ職務専念義務に関する最高裁判例の影響が大きかったと言われていました。

 管理職になって初めて,父から聞いた「山中教育長がいなければ今の鹿児島県の教育はなかった」と言い切っていたことに,納得させられる場面がいくつかあったのです。ここからは,父から直接聞いた話をもとに,当時の様子を少し振り返ってみたいと思います。

 県庁出身の教育長が続いていた頃は,主要な施策の細かな運用にまで日教組の介入を受け,県教委として思うように動けない状況が長く続いていたそうです。

 そんな中,昭和49年には教頭職の法制化が進み,鹿児島県でも「管理職試験の実施」や「主任制の導入」など,それまでにない大きな教育改革が避けて通れない課題として浮上してきました。

 こうした難局を前に,当時の金丸知事は,内部だけでは乗り越えられないと判断し,外部から専門性の高い人材を招く決断をします。そこで白羽の矢が立ったのが,文部行政や法令に精通し,現場の実情にも通じていた山中昌裕氏でした。

 山中氏は就任にあたり,「新たな教育改革の実施については,どのような反対や圧力があっても一切口出しをしない」という確約を金丸知事から取り付けたうえで,教育長の職を引き受けたそうです。その覚悟の強さが,当時の改革を支える大きな力になったのでしょう。

山中教育長のエピソード

 山中教育長(昭和48~50年)に就任して間もない頃のエピソードです。ある課長が,例年どおり刊行している県教委の冊子を持参し,「教育長,いい本ができました」と差し出しました。ところが教育長はそれを受け取らず,「私は許可を出していない。勝手に進めるとはどういうことか」と厳しく突き返したそうです。

 結局,その冊子の制作費である数百万円は,県内の教育委員会の管理職が分担し,寄付で賄うことになりました。ただ,本来この冊子は前任の教育長のもとで予算化されていたもので,新年度早々に配布されるのも慣例でした。法的にも社会通念上も大きな問題はなかったはずです。それにもかかわらず,異を唱える部下がいなかった点に,鹿児島県特有の組織風土の一端が表れているのかもしれません。その後一部修正しほぼ同じ冊子を教育長に提出したところ,「なかなかいい冊子ができたね」と評価されたという話も残っています。

エピソード(その2)

 これも父から聞いた印象的なエピソードです。

 初めての管理職試験は,名瀬会場と鹿児島の鶴丸高校会場の二か所で実施されました。県の担当者は,大島会場について「警備が少ないことから,デモ隊に囲まれる前に受験生を入場させたい」と何度も説明したものの,当初は認めてもらえなかったそうです。

 そこで,ある担当者がとっさに「大島は鹿児島よりかなり南方なので,日の出が早いので,早めの対応が必要で」と説明したところ,ようやく山中新教育長の許可が下りたそうです。その結果,事前に受験生へ連絡を取り,バリケードが築かれる前に会場内へ入れることができたそうです。

 ただ後日,その担当者本人から話を聞く機会があり,実際には鹿児島と名瀬の経度差はわずか1度ほどで,日の出時刻の差も4分程度しかなかったと明かしてくれました。「もし教育長が日本地図を見て気づかれていたらどうなっていたか」と,内心ひやひやしていたそうです。山中教育長としては,とにかく「新しい法体制のもとで立場をきちんと理解し,信念を持って校長を支える~バリケードを突破する人材」が欲しかったのでしょう。

 山中教育長としては,とにかく「新しい法体制のもとで管理職の立場をきちんと理解し,信念を持って校長を支える人材」が欲しかったのでしょう。今回の学校教育法の一部改正によって,教頭の役割は法的に明確化され,新たな時代へと移行しました。

 教頭職は「校長を助け,校務を整理し,必要に応じて児童の教育をつかさどる」また,「校長不在時にはその職務を代行する」ことも明文化されました。学校運営の要としての管理職であることがこれまで以上に求められたのです。

※「教頭職の法整備(昭和49)・管理職試験の実施・主任制度(昭和50)」など大きな節目と並行して下がる組合組織率~ 

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