長崎の鐘

古関裕而と永井隆博士の出会いは創作

 先週,十年ぶりに長崎市を訪れました。これまでは,車で県境を越えながら,できるだけ多くの観光地を効率よく回る,いわば「急ぎ旅」が中心でした。しかし今回は少し旅の仕方を変え,市電や市バスを利用しながら,長崎市内をゆっくり歩いて回ることにしました。特に今回は,原爆に関係する施設を中心に訪ねました。

 その中でも印象に残ったのが,爆心地周辺から原爆資料館,平和公園,永井隆記念館(如己堂),浦上天主堂まで歩いたことです。午前中の2~3時間をかけて歩いてみると,これまで車の窓から眺めていた長崎とは違う姿が見えてきました。そして正午,浦上天主堂を出たその瞬間,突然,大きな鐘の音が響き渡りました。

・原爆によって吹き飛ばされた鐘楼(浦上天主堂)

 下調べが十分でなかったこともあり,私はてっきり「長崎の鐘」は使われずに展示されているものだと思っていました。ところが妻が「博士たちが掘り出した『長崎の鐘』だね」と言うので,スマホで調べてみると,まさに原爆で被爆した実物の鐘でした。まさか,その鐘の音を実際に聞けるとは思っていなかっただけに,感動もひとしおでした。

 ドラマで描かれていたように,故郷や家族,友人,それまでの暮らしを一瞬にして失った長崎の人々にとって,焼け野原となった浦上に再び響いたこの鐘の音は,「希望の音」だったのではないでしょうか。天主堂の真下で聞いた長崎の鐘の音は,今でも耳に残っています。

 今回,長崎を歩いてみて,改めて「坂の町」であることも実感しました。道を歩きながら向かいの山裾を眺めると,市街地が山に囲まれた,まさに「すり鉢状の地形」であることがよく分かります。そんな場所に原爆が投下されたことを思うと,当時の被害がいかに想像を絶するものだったのか,改めて考えさせられました。

 大量虐殺の原爆投下

 それにしても,山に囲まれた狭い市街地である長崎に原爆が投下されたことには,今でも大きな疑問を感じます。長崎には多くの一般市民が暮らし,浦上地区にはキリスト教徒も多く住んでいました。こうした場所が攻撃の対象となったことを考えると,単に軍事目標への攻撃だったという説明だけでは,なかなか納得できないものがあります。

 原爆投下をめぐっては,軍事的な必要性や戦争終結のためだったという説明がありますが,実際に長崎の街を歩いてみると,そこに暮らしていた人々の生活が一瞬にして奪われたという事実を,より身近に感じます。だからこそ,この攻撃はなぜ行われたのか,人種差別的な偏見などが背景になかったのか,また当時の国際法との関係はどうだったのかを,改めて考えてみたいと思いました。

 今回は,朝ドラ『エール』で紹介されたゆかりの場所を訪ねました。中でも楽しみにしていたのが,ドラマの中で雄一と永井博士が出会う場所として描かれた如己堂です。実際に歩いてみると,爆心地から数百メートルほどの範囲に,永井博士の人生と深く関わる場所が集中していることが分かります。ドラマで描かれた場面を思い浮かべながら歩くと,作品の世界がより身近に感じられました。

 ところが,永井隆記念館の担当者にお話を伺うと,永井博士と古関裕而氏は生前から交流があったものの,古関氏が実際に長崎を訪れたのは,永井博士が亡くなった翌年だったそうです。つまり,ドラマで描かれた「雄一と永井博士の出会い」は,史実ではなく,二人のつながりを分かりやすく描くための創作だったわけです。ドラマの場面を実際の如己堂で思い描くことを楽しみにしていただけに,それを知ったときは,少し残念な気持ちにもなりました。

長崎は「坂の町」

 長崎は,実際に歩いてみると,高齢の身にはなかなかこたえます。少し歩いただけでも坂道が続き,振り返ると,向かい側の山裾まで住宅や建物が広がっています。歩いてみると,山に囲まれた長崎独特の地形がよく分かります。そして,この地形を目の当たりにすると,1945年8月9日にこの場所で起きたことも,これまでとは違った形で想像されます。盆地状の狭い市街地に爆風と熱線が一気に広がり,そこで暮らしていた多くの人々の生活が一瞬にして奪われたのです。その被害がどれほど凄まじいものだったのか,現地に立ち,自分の足で歩いてみたことで,その一端を実感することができました。

・ 上の図のように地上500mの原爆炸裂地点から如己堂までの直線距離792mで,まず大量の放射線が降り注ぎ,1.76秒後に熱線と衝撃波が襲って一面の家屋は吹き飛び壊滅したのです。

・ 永井隆記念館(上)と原爆被害の山里国民学校(下)

「エール」の場面を求めて

 十年前には車で通り過ぎただけでしたが,今回は自分の足で歩いたことで,坂道や山裾に広がる町並みまで目に入り,車から見る長崎とは違った印象を受けました。

 さらに平和公園に入ると,小学校の修学旅行で訪れた子どもたちの姿が目に入りました。どの学校もグループごとに合唱をしたり,代表の子どもが言葉を述べたりした後,折り鶴を納め,「誓いの言葉」を唱えています。先生に引率されて見学しているというより,学校でしっかり準備してきたことが伝わってきました。そんな子どもたちの姿を見ていると,現職時代に経験した「平和教育」をめぐる出来事が思い出されました。

 ・アンジェラスの鐘

平和教育について

 かつて管理職として勤務していた学校の修学旅行先は,熊本市内と三井グリーンランドでした。子どもたちにとっては,何といっても遊園地が一番の楽しみだったようです。ある年の一学期の打ち上げの席で,その日の職員会議で修学旅行の日程が決まったこともあってか,若い組合の先生がかなり酔った勢いで私のところにやって来て,「修学旅行が毎年熊本の遊園地ではおかしい。長崎で平和学習をすべきです」と言い出しました。
 私が「新幹線でもあれば別ですが,今の日程では一泊二日で長崎まで行くのは時間的に無理でしょう」と答えると,「二泊三日でもいいじゃないですか」と,さらに食い下がります。そこで私も,「修学旅行の費用は保護者が負担するのですよ。日程を延ばせば,それだけ負担も増えます」と強い口調で反論しました。すると話は次第に熱くなり,近くにいた組合員の先生たちも集まってきて,「平和教育は大事だ」という言葉が繰り返されました。
 私も負けずに,「平和教育が大切なのは分かっています。しかし,平和教育だけを主張するのではなく,組合として労働環境の改善やベースアップを求めることも大事じゃないですか」と言い返してしまいました。今思えばお互い酒が入って感情的になっていたこともあり,激しいやり取りになったものです。最後は,近くにいた高齢の先輩教員が間に入り,何とかその場を収めてくれました。 

・「如己堂随筆」(己の如く人を愛する)は,永井隆さんが被爆体験や長崎での出来事,平和への思いを病床から綴った随筆です。被爆の記録であると同時に平和への願いを託した作品で,博士の死後まもなく刊行されました。一方,博士を一躍有名にした随筆『長崎の鐘』は,亡くなる約2年前の昭和24年に刊行され,翌年には古関作曲の名曲「長崎の鐘」が映画の主題歌として全国的にヒットしました。

学校では得られない平和教育

 今回,平和公園で修学旅行の子どもたちが合唱曲を歌い,折り鶴を納め,「誓いの言葉」を唱える姿を見て,現職時代に先生たちと平和教育について議論したことを思い出しました。もちろん,平和について学ぶことは大切ですし,長崎だからこそ学べることもたくさんあります。実際,今回,原爆資料館や爆心地,平和公園を歩いてみて,現地に立ち,自分の目で地形や距離を確かめることで,教室で資料や映像を見るだけでは分からないことがあると改めて感じました。 

 一方で,学校教育には限られた授業時数があり,修学旅行には保護者の経済的な負担もあります。何を学ばせるかだけでなく,子どもの発達段階や家庭の事情,学校全体の教育課程とのバランスも考えなければなりません。

 私自身,学校現場にいた経験から,修学旅行の準備や事前学習にかなりの時間が必要なことも分かります。今回見た子どもたちも,学校で相当な時間をかけて練習してきたのでしょう。それだけ平和教育を大切にしていることは伝わってきました。

・ 何校かの修学旅行で一杯でした。

 ただ,平和教育だから何をしてもよいということではありません。「何をするか」だけでなく,「どれくらいの時間をかけ,どのような方法で学ぶのか」も大切です。特に,教える側の思いが強くなりすぎると,子どもが自分で考える前に,特定の結論や考え方を押し付けることにもなりかねません。

 そう考えると,沖縄・辺野古での平和学習をめぐる問題も思い出します。平和について学ぶことが大切だからこそ,その教え方や伝え方には慎重さが必要なのだと思います。

 長崎を歩きながら,原爆の悲惨さだけを伝えるのではなく,なぜ戦争が起き,多くの人が犠牲になったのか,そして平和とは何なのかを,子どもたち自身が発達段階に応じて考えられるようにすること。それこそが,平和教育の大切な役割ではないかと改めて感じました。 

西ドイツのガウク大統領の献花

 また平和記念像を見ていると,十年前の長崎訪問のことも思い出しました。前回訪れたのは2016年11月18日でした。そのときは偶然,ドイツのヨアヒム・ガウク大統領が平和公園を訪れ,原爆死没者慰霊碑に献花する場面に遭遇しました。後から調べてみると,これはガウク大統領の日本訪問最後の日程で,献花の後には原爆資料館を訪れ被爆者とも面会していたようです。

・平和記念像に献花する大統領

 同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツの国家元首が,長崎で原爆犠牲者に献花する姿を目の前にして,私は「この人は,どんな思いでここに立っているのだろう」と考えました。自国も戦争によって大きな犠牲を出し,また周辺国にも甚大な被害を与えた歴史を持つだけに,ガウク氏も単なる外交上の行事としてではなく,戦争と平和についてさまざまなことを考えながら献花していたのではないかと思います。

 戦争は,さまざまな利害関係や政治的・経済的な要因が絡み合って起こります。しかし,いったん戦争が始まったからといって,何をしてもいいというわけではなく,そこには歴史的反省から国際法というルールがあり,そのルールに従って行動することが求められてきました。
 ところが戦争が終わると,勝者と敗者という立場から歴史が語られ,敗戦国の責任ばかりが問われがちです。戦後の国際社会に必要なのは,戦争に至った経緯や双方の行動を,当時の世界情勢や国際法に照らして冷静に検証することではないでしょうか。「勝てば官軍,負ければ賊軍」という発想では,同じことが繰り返されるばかりです。(戦後80年以上たった今)メディアも,一方の立場だけから見るのではなく,さまざまな角度から事実を検証し,その戦争が歴史的にどのように評価されるべきなのかを問い続ける役割が,ますます求められているのではないでしょうか。

 ガウク氏は2012~2017年までドイツの連邦大統領を務めました。ドイツでは大統領が国家元首ですが,政治の実務を担うのは連邦首相で,当時その職にあったのが初の女性首相アンゲラ・メルケル氏です。メルケル氏は2005~2021年まで約16年間,首相を務めました。

 十年前にはガウク大統領の献花を,今回は同じ場所で,日本の小学生たちが姿勢を正して歌を歌い,折り鶴を納め,「誓いの言葉」を唱える姿を見ました。現職を離れた今,改めて平和公園を歩いてみると,当時とはまったく違った印象が残ります。子どもたちの姿を見ながら,現職時代に先生たちと「平和教育」について議論したことも思い出しました。

 考えてみれば,現職時代と今とでは,長崎の見え方もずいぶん変わっています。原爆の悲惨さを伝えるだけでなく,何をどのように学び,そこから平和について子どもたち自身がどう考えていくのか。歴史ある長崎は訪れるたびに新たなことを考えさせてくれる,不思議な力があるように思います。

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